小さな頃から

本音を言えば

私は半ば、日本の色々なことに絶望して出てきた。

人付き合いの温もりのなさ。いつも時間に終われている。タスクが沢山ある。周りに合わせることがよしとされる雰囲気。

勿論、楽しいことも沢山ありました。

 

こちらに来てから、タブーなどもあるものの、日本よりも素直に言いたいことを言えるので非常に居心地よいです。挨拶の時、同性同士は、ほっぺをくっつけて左右にチュッとする。その度にとても温かい気持ちになる。

 

そもそもどうして私は生まれ育った環境に、居心地の悪さを感じるような人間になったのだろうと考えたことがありました。

 一般的には、自分の生きてきた環境には良く適応できるはずではないか?

振り返って考えると心当たりになりそうなことが子供の頃の記憶から1つ思い浮かびました。

あまり子どもに積極的にテレビを見せるタイプではなかった母が、幼い私たちにアフリカのサバンナの動物や自然のドキュメンタリー番組をよく見せてくれました。

動物が狩りをしたり、食べられたり、死んだり、赤ちゃんが産まれたりするの話でした。ちょうど当時の母は今の私と同じくらいの年齢でした。母は私たちに命の大切さのわかる人になってほしかったよう。母は偉大。

よくアイスを食べながら並んで妹と一緒にみたものです。我が家でお風呂上がりのアイスはご褒美の贅沢スイーツでした。

幼い私にとって動物が死んだり他の動物に食べられるシーンは衝撃的でした。どうして他の動物を食べなくてはいけないのか?と母に質問した記憶があります。

母は「食べないとその動物さんも生きていけない。あなたが好きなお魚さんも牛さんも豚さんもみんな生きてたんだよ。食べないと生きていけないよ。毎日ご飯食べてるでしょ?だから美味しく食べないとダメだね。」

というようなことを言われた気がする。

振り返ると、それら番組から得た学びは今の私にとても影響があったし、知らない間に自分の軸になっていたことに気づく。

また、それらの番組を通し私は、人間にも寿命がありみんないつか死ぬということを学んだ。その学びは子どもながらに絶望的な衝撃があったことを覚えている。「死んじゃやだー。お母さんは死なないで」と訴えました。

確か母は「お母さんはちゃんとずっといるよ」と言い私を抱きしめてくれました。

しかし時が流れ大人になり、人が生まれた順番に命を全うできることがどれだけ有り難く貴重なことであるかわかるようになりました。仕事するなかで、子どもが親を残して先に亡くなることがどれだけ周りを苦しめるか。

 

そんな私は子どもの頃、町中の風景を眺めて、

「地球はみんなのものなのに、人間は人間のためにだけに、勝手に町を作っている。他の動物に何の相談もない。なんてわがままなんだ。ビル、道路、お家、町にあるもの全部人間のもの。人間は自分達が頭がいいと随分偉そうにしてる。」

と思うことがありました。どうやら幼い私は、自分達の利益しか考えず、環境を都合のいいように変えてしまう人間という生き物がとても気にくわない子どもだったようです。

 

 

話は大きく変わるが、モロッコ人は何かトラブルがあるとすぐ

「マシュモシュキ、マシュモシュキ」と言う。

日本語では「ドンマイ、気にするな、気にしないよ、大丈夫だ」というような意味のダリジャですが毎日あちこちで盛んに言われています。私も人とぶつかって謝られたときや、お掃除のおじさんが箒ではいたごみが私に飛んできて謝られたときなどに言っています。

口癖とはおもしろく、本当に大概の失敗やトラブルなど都合が悪いことを、モロッカンはほとんど気にしない。

外国人の私から見るとその精神がこの国の発展を妨げている一部となり悪目にでてると感じることもあるが、必ずしもそうではない。

町中に置き去るパンのごみや食べかすなど猫や野犬が食べ散らかそうが気にしない。お肉屋さんの床に落ちたお肉のかすを猫が食べに来ようが気にせず、そのまま食べさせておく。基本的には何事も放置。カフェに猫が入ってきたとき、客が食べていたクッキーを猫にお裾分けしていた。広場では、いつも誰かが鳩にお菓子をあげている。これらの慣習は恐らくイスラームの教えも影響していると思われる。

お陰で鳥のいる広場はいつも鳥ふんとお菓子のかすが落ちている。

 勿論、衛生的には汚いし、見栄えは悪くぐちゃぐちゃではある。日本ではあり得なかったり悪いことと捉えられるかと思うし、日本にいたときの私は汚くて耐えられないと言うだろう。

でも、今ここにいる私は、ごみや余った食べ物を犬や猫が食べてごみも減って猫や犬がお腹を満たせるなら、ウィンウィンなのではないか?とも考え、許せてしまう。

(※  毎朝、市で雇われたお掃除のおじさんが町を掃除しているが実際にはゴミの破棄が多すぎて間に合っていない現状。)

 

日本にいたらそんな発想には至るはずもなかった。

私の住んでいる地域は町の中だが、程よくそこにいる動物とうまく暮らしているように思う。

例えば、路駐してる車の上にサギ系の鳥がいてビックリしたこともあった。よくみるとお肉屋さんのおじさんが店のお肉を小さく切って、車の上に向かってお肉を投げていた。たぶん彼は毎日鳥にご飯をあげているのだろう。

モロッコはこれでいいと私は思う。ここはこのままでいい。

 

そんなことをいい始めた私は、だんだん自分がモロッコ人化してきている気がする。

帰国したら更に日本での生活が居心地悪くなるのではないか…

不安だ。

 

 

市場でアラビア語でたぶんアナ雪を歌うオモチャの人形は、くるくる回っていた。
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続く。

苦しみと喜び

日本をたって早2ヶ月。

気がついたときには過ぎていた2ヶ月。

ホテル暮らし、ホームステイ、語学学校、アパートへの引っ越し、仕事開始。合間に体調崩して受診したりなんだり。

 

激動の2ヶ月で目まぐるしい日々だった。

 すごい勢いで一週間が終わる。それが4・5回繰り返されると1ヶ月が終わっている。

それがあと20回程繰り返されたら終わると思うと2年間は短い。と思うときもあるが、実際はゴールが見えないマラソンのよう。

 

職場は相変わらずで悩みはつきない。考えようと思えばいくらでも考えられるし、改善させようと思えばいくらでもやれることはある。でも、変えられない現状とシステムと文化、習慣。それは、とても根深い。

彼らが悩んでないのに私だけ悩んだって仕方ないと諦めることにした。

見ていて何もできないことや言葉が拙すぎて伝えられず理解を得られないことは沢山あってもどかしいし、しかもその場で理解してもらわないと私の意図や根拠が伝わらない。

今は、仲良くなることに重きを置きたいが、そうやってスタッフと私が喋ってる間も、病棟のアラームは絶えることなくなり続けるし、私だけがひたすら働いたってそんなのはただの独りよがりの活動。

それにここでは、ケアのレベルの高さよりも、人として仲良くなった方が受け入れてもらえる。仕方ない。でも赤ちゃんが可哀想。

ある日、自己嫌悪と無力感を携え職場を出たとき。

「マダモゼール!」

と女性に呼ばれていることに気づいた。

 

つい先日まで入院していた赤ちゃんのお母さんが外来に来たようで声をかけてくれた。

日本にいたときの習慣で、病棟をぐるぐる回って赤ちゃんやお母さんたちと話をしている。産後間もないお母さんたちが少しでも我が子を愛しむことができる関わりと時間を持つことは、長い育児生活に影響するし、ただでさえ産後のホルモンバランスの崩れたときに我が子の入院は、心身ともに辛い。

とりあえず、「かわいい」「いい子」とお母さんたちにニコニコしながら言ってまわり授乳介助したりすることしかできない。アラビア語の語彙が少ないため。

こちらの病院文化として、比較的医療者優位な関係が多く見られ、産後間もないお母さんが椅子を探して歩いてても、椅子に腰かけた医者はせっせとカルテを書いていることも見受ける。

 

ここでは、子どもの治療に口を出せないけど、お母さんたちへ介入ができる。日本でも好きだったが、私は家族への介入がやっぱり好き。

 

そのお母さんは、当時毎日面会に来ていて、いつも明るく笑顔が素敵で、私の方がお母さんから元気をもらっていた。

そしてまたしても、気分の沈んだ私を助けてくれたお母さん。気持ち良さそうに寝る赤ちゃんにも会えた。

 

たぶん、間違ったことはしてないだろう。

でも、私一人でやってても…独りよがりの活動。

一気に日本のようなケアができるわけはないから、どこからやっていくことが彼らに受け入れてもらえるか。

 

これから少しずつ、探る。

 

続く。

ラマダーン中のビスミッラー

ヒジュラ歴の9月にあたるラマダーンムスリムは、日の出から日没まで飲食を行わない。

私は体調の不安もあり、ラマダーン開始日から2日間の土日は昼間、家で食事をいただいた。

当初から二年目にはがっつりラマダーンのサイマ(断食)するつもりで入国した。でも今の時点で、ムスリムのことをもっと理解したいし、イスラム教のことももっと知りたい。

そのため、仕事のある月曜日から金曜日までは、体調の許す限りサイマ(断食)に挑戦してみることに予定変更。

看護長には、「食べなさいよ~‼」と言われた。恐らくみんなが空腹と疲労で働き者にならないからせめてムスリムでない私くらいチャキチャキ働いて欲しかったのでしょう。看護長、すみません。

その他の同僚たちや、面会に来ている母たちには、

「君もやるのか!頑張れよ!最後に何時に食べればいいのかわかるか?何時から食べていいかわかるか?今日は●時●分だよ!彼女、断食するんだって。」

朝、数人に断食頑張ると言ったが、夕方にはみんなが知っていた。さすがお喋りモロッカン。いや、日本の病院も一緒か。

 

昼過ぎが空腹の辛さのピーク。13時から15時くらいがきつかった。17時を過ぎるともうカウントダウンが始まり楽になった。

病院の方は、朝の始業がいつもよりも遅めスタートで人数も少なめな勤務体制。朝の回診にちゃんと来ている女医さんたちのたくましいこと。彼女たちは日中もチャキチャキ働いてる。看護師は比較的、事務仕事を率先している印象。なぜなら、なるべく座ってたい。私も椅子ばかり探しながら赤子にミルクをあげる。そして、数名いる男性医師はどこへ消えたのか。たまたま休みばかりなのか。真相は分からない。

15時を過ぎてからのスタッフはグロッキー。さすがのモロッカンも口数が少なくなっていた気がする。スタッフが怖すぎて仕事終わりに「お先に失礼します」と言えなかった。

私より先に上がったスタッフも、みなこっそりと帰っていく。

対称的に、いつもと変わらないのは面会に来るお母さんたち。彼女たちは授乳の必要があるため断食を免除される。自分で期間をずらすそうです。病棟で誰よりも元気そうに見える。グロッキーなスタッフ横目に、お母さんたちは楽しそうにお喋りしながら、仲良く授乳。

 

普段仕事中にお祈りするスタッフは数人だが、ラマダーン中は入れ替わり立ち替わり多くのスタッフがお祈りしていた。朝には電車のなかでコーランを読んでいる人も何名か見かけた。モスクに入っていく人も普段より明らかに多い。

ムスリムにとって、最も大切で神聖な祈りの1ヶ月が始まった。

 

夜ご飯を作るのがとても楽しかった。あと●分でご飯が食べられる。10分前からスプーン片手にテーブルでスタンバイ。

 

夜、日没を報せるアザーン(お祈りの報せ)がなり、

 

「ビスミッラー(いただきます)」

 

お粥を口にいれた瞬間の美味しさと幸せで涙がボロボロ止まらない。

 

食べられるってこんなに幸せなんだ。

食べるってこんなに美味しいんだ。

 

当直でご飯食べ逃した日本の医者も同じくらいの時間ご飯食べずに働いているかもしれないが。

 

こちらに来てから絞めた鳥を買ったり、生活のなかで、食べ物の命を頂いて生かされていることをとっても感じることができる。

 

ラマダーンの1ヶ月、毎年サイマ(断食)しているムスリム

本当に尊敬する。

 

折角、イスラム圏で生活するという貴重な経験をする機会を得たからには、思う存分ここで得られることから沢山学びたい。

 

体調をみながら出来る限りの挑戦を続けたい。
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タイムスリップ

オピタルドンフォンで赤ちゃんがまた一人亡くなった。

心肺停止になり心臓マッサージと人工呼吸をしながら、医者が「いつもよ」と私に言う。この子は先日も心肺停止になり蘇生されていた。

ベットの生年月日をみると生後1週間たっていない。

医師たちがあれこれ処置を行うが状態は回復しない。医師たちは限界に感じたようで、あきらめてその場を離れていってしまった。

 

呼吸状態から、もうすぐ亡くなることが予測された。呼吸器と点滴は繋がれているもののなすすべもなく、ただベッドに横になっている。家族はおらず一人ぼっちであった。生まれてたった1週間とこの世にいることができなかった赤ちゃんがたった一人で亡くなっていくことに心苦しくなり、私はどうしてもその子の元を離れることができず、ただ手を握り足をさすり、少しずつ冷たくなっていく体を触っていた。

 

しばらくして、医者が赤ちゃんの聴診をしに来た。

私は医師に「この子は既に…」と伝えると頷いて心拍を聴診し首を横にふる。

そして、医師は君も聴診をするかと私に尋ね、私も聴診をする。

その後何人かの医師が聴診して確認していった。

 

どうしようもないことだとわかっていても、ただ悔しかった。

 

日本にいた頃、状態の非常に悪い子どもの治療を医師があれこれ必死になって長期間繰り返し行っているとき、私は治療にも苦しむ子どもを前にして、こんなに苦しい思いをさせたくないで、少しでも子どもが苦しくない選択ができればいいのにと考えることもあった。日本では選択肢がたくさんあり、最後の最後まで治療し続けることが多かった。そうでない場合ももちろんあったけれども。

 

たぶん、日本にいた頃にもっと治療に苦しませないで亡くならせてあげたいと私が考えていた亡くなり方であった。あれこれ最期まで処置されて苦しめられるよりもよっぽどよかった。しかし赤ちゃんは一人ぼっちであった。それだけがとても心苦しかった。生まれてから、母親や家族に抱っこされ触れられる時間もほとんどなく、点滴やらチューブやら入れられて、ベッドに寝かされて過ごした1週間はどんな人生なんだろうと。

 

医師が点滴や呼吸器などを外していく。私も赤ちゃんの体についた血液をふき取る。

「これがこの子の人生なのよ。生きているときは大変だったけど今は楽になった。今は休憩しているだけよ。だから、悲しむことなんてないのよ。」と女医の一人が悲しむ私に言う。早口のフランス語であったがだいたいこのようなことを言っていた。そう言いながらも彼女も悲しそうな顔をして、身体の汚れを拭きとっていた。

 

この環境に2年間耐えられるだろうか。私はどうしたらいいのだろうかと休憩室で座って考えていると、日本のベテラン先輩の言葉が頭に浮かぶ。

「たぶん、向こうに行ったら信じられないことが沢山あるんだろうけど…でも、日本も昔はそうだったんだと思うのよ。昔は助からなかった。昔は赤ちゃんにモニターなんてつけていなかったし、今では信じられないようなことも沢山していた。昔の日本では助からなかった子どもが、今の日本で助かるようになったことで今度はしょうがいを抱えて生きていかなくてはならない子どもが増えてしまった…」

 

日本も昔は、きっと今のモロッコと似たような環境であったのだろう。

確かに日本では、肺サーファクタントが使用されるようになってからの超未熟児、早産児の救命の質改善は著しいものである。

 

もし、今私がモロッコで見ている現状は、昔の日本の医療の世界をタイムスリップして見ていると考えたら…

 

また、もし、未来から今の日本の病院にタイムスリップして、今の日本のケアを目の当たりにしたら。私が知ってる最前線のケアをしたとしてもタイムスリップしてきた人にとって、こんな状態で赤ちゃんがなくなってしまうなんて!と衝撃があるのだろう。

 

そう考えるとモロッコの病院の現状を受け入れられるような気がした。

1週間と生きられずに亡くなった赤ちゃんの死を通して沢山のことを教えてもらった。私は彼を看取ることができて本当によかった。亡くなった彼に感謝する。

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続く。

エロキティ

日本発祥のHELLOKITYというネコのキャラクターがいることは日本人の多くがご存知かと思う。

私はHELLOKITYのイラストの入った筆箱を日本でフランス語を学習する前から使用している。

 

日本でフランス語を学んでいく中で、H(アッシュ)は発音しないこと学んだ。

フランス語を教えてくれたモロッコ人の先生も「アッシュは可愛そう。書くのに発音しない。仲間はずれです。」と言っていた。

お気づきの方もいるかと思うが、そう「ハローキティ」のことをフランス語では「エロキティ」と発音する。

もしかしてこれはエロキティ?と思い、筆箱を先生に見せて「これはエロキティですか?」と質問すると「そうだ」と言われる。

一緒に講義を受けていた子と大笑いした思い出がある。先生は日本語に長けているため、私たちが笑っているのを見て呆れていた。

どうしようもないことだが、こんなにチャーミングなキャラクターがエロキティになってしまうことが滑稽である。そしてその面白さは日本人にしかわからない。

 

時は流れ

今モロッコで私は日本から「ハローキティ」のプリントの入ったナース服を1枚持ってきた。お気に入りのピンクである。

 

お気に入りのピンクを着用して仕事中に医師の回診についてまわっていると、

女医さんに「あなたの服可愛いわ、日本から持ってきたの?そのキャラクター、エロキティね」と言われる。

前では教授が怒鳴りちらしながら医師に指導しているのに、私に雑談を振ってくる。彼女には全く悪気はないが、こんなシリアスな状況で思わず噴き出して笑いそうになってしまうではないか。

 

言葉って本当に面白い。

お気に入りのピンクのエロキティを着て、2年間モロッコで頑張ろう。

 

続く。

見つけた‼

急変は、毎日ある。

なぜなら急変するまで頻回で正しいなアセスメントをしていないから。 

毎日、毎日、酸素飽和度の低下、心拍の低下、そして、心臓マッサージ、マスクバック。薬の使用。

  

医者は8時スタートの24時間勤務。

看護師もシフトによるが、8時スタートの12時間交代などがスタンダードのよう。

長い。そして、やはり集中力が続かない。

ソファに座って、喋りながらスマホをいじっている。

そして、休憩ばかりで仕事していないように見える。百歩譲って、長時間の拘束によりだらけてしまうのも無理はない気がしなくもない。それにしても、こどもの具合が悪くてもほっておくし、処置時のこどもの扱いが基本的に酷くみていられないことが多い。

 

そのなかに、とてもケアの質がとても高く、しかも子どもに声をかけながらケアをしている人がいた。私には白衣の天使に見えた。

あなたのケアがとても素敵だわ!どうしてそんなに頑張るの?などと聞いていくと、赤ちゃんの為に新生児看護を7ヵ月勉強したとのこと。その後あれこれ教えてもらい、その7か月間の講義資料のデータをいただいた。誰がそのような講義をし誰がそのようなことを始めたのか…色々聞いていかなくては。卒後教育がほとんどなくスタッフのモチベーションも低さもあいまってケアの質向上の必要性を訴えることが困難な現状の中、希望が膨らむ。 院内に12人程そのカリキュラムを受けたスタッフがいるそうだ。

子どものために新生児看護を勉強した人がここにいたなんて感激だった。仕事にやる気ある人もいるんだ。

少しずつ少しずつ。追い風が吹きますように。

まずはいただいた資料の内容を理解するところから。

 

 

続く。

命の重さ

これから先は、カルチャーショック編はオピタルドンフォン内の内容中心になる見込みです。随分とシビアでシリアスな内容ですが、

書けるギリギリのところまで書いてみます。

 

 

毎朝、出勤すると赤ちゃんが減っている。

昨日までいた子どもが今日はいない。

 

黄色い皮膚の子。

よく吐いてた子。

昨日、急変してなんとか戻ってきた子。

いなくなっている。

 

 

目の前で酸素飽和度が20パーセント台まで下がっている子がいる。時々徐脈にもなる。主治医は何もしない。見てるだけ。

マスクバックを提案するが、要らないと返答。どうしてマスクバックしないのか?と問うが明確な返事なはい。私には彼女がどのようにアセスメントしてるのか、よくわからない。

手足を刺激する。刺激への反応して回復する。

 

今すぐ挿管しないと死んでしまう。

 

他の医者が来て、隣の子のアドレナリンとおぼしきシリンジをその子に付け替える。心マと吸引して、挿管すると回復していた。そもそも、どうして主治医は気づいていてたのに眺めていたのか、私にはわからない。

 

そしてスタッフは心肺蘇生を笑って話ながらしている。私には彼らの感覚が理解できない。

 挿管チューブを固定している途中、チューブから手を離して髪の毛を整えていたりもする。

 

私は何から手をつければいいのだろう。とりあえずスタッフに私自身を受け入れてもらわなくては、何事も話が進まない。しかし、そうこうしてる間にどんどん子どもは亡くなっていく。

 

ここの文化や風習、人の価値観や倫理は、私一人ではどうしようもない。問題の根の深さを実感する。そんな簡単に改善するくらいなら、もう変わっているだろう。

この国が変われない理由、先進国になれそうでなれない理由が如実に浮き彫りとなった。

 

研修所で「途上国では命が軽いです」と言っていたのは、このこと。

 

この環境に慣れるのだろうか?

正直慣れたくもない。

この感覚を理解できるときがくるのだろうか?もし理解できたとしても、共感はできない。

 

助ける手だてがない訳ではない。

しかし、ここは恵まれている。

助けるための道具がちゃんとある。

呼吸器やN-CPAPもあり、それなりに揃っている。

それなのに人が機械を使いこなせていない。その現実に気づいていないようだ。

私にはなぜ?が沢山ある。関係を作りながら上手に探っていく必要がありそうだ。

 

一人一人と話してると普通のモロッカンだし、私にはとても優しい。

だからこそ、すごく違和感を感じる。

 

その場しのぎで、私が手を出したとしても、私がいない間にいつか同じことが起こって亡くなる。昨日急変してなんとか復活できたとしても、その子どもは今日には亡くなる。

 

色々な処置の理由を、私が質問しても、明確な答えがない。

彼らの行っている処置に根拠がないから。化学に則りケアをするという概念がないのだろう。仕方がない。

何事も見よう見まねで行っている様子。

 

泣いてた子どもを抱っこしてあやしていたら、医者の一人に

「あなたはなんでだっこしてるの?まあ、なんて優しい心を持ってるのー!」

と言われた。

日本ではこれが一般的なことだと伝えたが、あんまりわかっていなかった。

 

彼らが見たことのないことを伝えていくことの難しさ。

目の前で苦しそうに泣いている赤ちゃんと眼が合うと苦しくなる。 

 

途方にくれる。

 

 

続く。