出会い

日本はお盆真っ盛り、夏休みシーズンなのだろうか…海、旅行、海、旅行、バーベキュー、川、旅行。私の夏はいつも忙しかった。

 

こちらもバカンスシーズンで学校などは長期休みで9月から新年度を迎える。医療機関はなかなか教育機関のように長期でのバカンスはとれないものの、みな順番に少しずつ休みをとっているよう。しばらくみないな~と思っていると、いい色に日焼けしてすっきりした顔でバカンスから帰ってくる。

 

私は自分の活動がまだ始められてもいないし、情報収集も不十分なので休んでいるわけにもいかず、時期をずらして休暇をとるつもりである。

遊びに来たわけでもないし旅行しに来たわけでもない。自分のための仕事をするために来たわけでもない。モロッコの人のために少しでも貢献すること。ここに居られるのは、本当に運よく縁があってこれただけである。だから、休暇はストレス発散してリフレッシュするためであり、またモロッコへの知識や見聞を深めることで、それが結果として活動にフィードバックするようにしたい。

 

たまたま、モロッコに以前専門家として派遣されていた方がモロッコに帰ってきて、話を伺うことができた。色々なことを伺い大変勉強になった。

一番よかったことは、「何もできなかったとしても、任地の人と良い関係で終われるだけでも十分活動だと思います」と言ってくださり、大事なことを忘れていたことに気づいた。

 

日本の病院にいたときはもちろん、プロだった。

今もボランティアで給料をもらっていなかったとしても自分自身は同じプロである。

JICAでボランティアとは…協力隊とは…国際協力とは…と耳がタコになるほど聞いてきた。

でもここにいると、専門職のプロとしてやることは見えてくる。それでも彼らの行動の裏付けられる習慣や思想もみえて人の行動がそう簡単に変われないことも見えてくる。気になるところにアプローチをかけることが正しいのかもわからない。モロッコの悪いところやできていないところのすべてを変えることが正しいとも思わない。日本の正しいとされていることがすべて正しいとも思わない。ある人から見たらモロッコの悪いところだというかもしれないが、私にはモロッコのその部分がなくなってほしくないと思う部分もある。

結果的に現在の語学同様、活動についても頭の中はぐちゃぐちゃ。

できることはやるが、でも自分の考えが正しいのかもわからない。仕事でないから評価や判断を仰げない。

 

そんな迷走していた私は、今日、元専門家さんの話を聞いて、出国時に目標に立ち戻れた。

まずは、モロッコ人を好きになること。

その次は、モロッコ人と仲良くなること。

活動やら病院やら言っている場合ではなかった。

まずは、人として受け入れられ、ここで愛されること。

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貴重な時間と出会いに感謝。

そして、お土産に専門家さんからは日本のお菓子と、事務所のスタッフから納豆をいただいた。

おかめ納豆だった。もらった瞬間に蓋をハフハフしてすごい勢いで匂いを嗅いで、「あ~納豆だ~‼」と納豆の匂いに癒されてしまった。そんな匂いに癒される自分がちょっと切なかった。スタッフとこんな匂いのする食べ物を喜んで食べる日本人って不思議ですよねと話していた。

 

続く。

ちょうど一年前…

先日、同期の訓練生と電話で喋っていたところ、「そういえば、ちょうど一年前ぐらいに合格発表だったよね~」といわれていろんなことを思い出した。

 

一年半ほど前。

願書提出のために、職場の図書館のパソコンに向かって眠い目をこすって夜な夜な願書を作成。たまたま、隣の病院の先輩看護師に遭遇。助けて下さいと頼み込んでその場で願書の添削をしてもらった。彼は私の比にならないくらい忙しい方なのに、翌日にも時間を割いて見ていただいた。本当に新人時代からお世話になっており、感謝である。ただひとつだけ後悔がある。「お前、もういいよ。お腹すいたから今から飯食いに行くぞ!飲みに行こうぜ。」と誘っていただいた。にもかかわらず、願書がそれどころでなく、期日も迫りまだ願書ができてないからといい、とても飲みに行きたかったが断ってしまった。これからますます活躍していくことの間違いない人で、一緒に飲みに行くのはもっと難しくなるだろう。非常に後悔している。そして多分本人はそんなことを言ったことも覚えていないだろうが、2年後是非ともお願いしたい。図書館でたまたま先輩にあったり…このころから確かに運が私を味方してくれていた。

 

1次試験合格。同業者では確か3/4くらいの受験者が合格しており、倍率は4倍から2次試験では3倍くらいであった気がする。

 

2次試験の日にちは6日間の間のどこかになるか、ぎりぎりまでわからなかった。どうしてもわからないから6日間休みを入れて、後で実際の試験日以外は日勤をするからと看護長に交渉するが、「あなたが個人的にやってることでしょ、5日間で希望だしなさいよ…」と。そんなことを言われたため、休み希望が入れきれず、賭けをして1日目から5日目までの最大の5日間をとった。すると、なんと休み希望を入れていなかった6日目が自分の試験日になってしまった。これではせっかく1次試験を通ったのに、2次試験に行けない。勤務交代も考えたが厳しいシフトであった。なんでたった1日、風邪ひいたりインフルになったら休め休め言うのにこういうところで融通効かないというか…色々と思うところがあった。

諦めていると、主任から電話、「●●さんが急に具合悪くなって、仕事できなくなったから、△を出勤してほしいの、代わりに★を休みにするから」と。その★は試験日。なんという幸運‼

「はい、もともと★は予定を入れたかったのでありがたいです。△仕事しまーす」と返答。ぬか喜びもつかの間残酷にもその直後、「やっぱりさっきの電話辞めにして休みの日××にしてくれない?そのほうが、**さんの勤務が…」と言われたが「主任‼どうしても、どうしても、★の日の休みが必要なんです。その日は実は試験日なんです。どうか行かせてください、一生のお願いです。ほかの日に全力で働きますから‼」と体育会系の頼み込みに主任が折れて、再度の勤務交代の拒否に成功。

そうして、幸運にも2次試験への参加をもぎ取った。試験倍率は単純には3倍だが、自分の職歴と学歴で全ての任地に行けるわけではなく可能そうなのは5箇所くらいしかなかった。他の人がどうなのか知らないから倍率がどれくらい高くなるのか計算できない。でも、この流れの展開を思うと、もしかしたら行けるのではないかという気もした。

 

1年1か月前、2次試験。

周りの人たちはガチガチに緊張しているか軍人のように固く体中を固めてそうな面持ちか、緊張しすぎて多弁な女の子やら。試験なんて久しぶりだなと思いながら、緊張することもなく「まぁ、受かったらどこかへ行けばいいし、落ちたら、在宅医療、保育やリハビリ、療育の勉強しながら、好きなところで働こ~。別にこの試験に落ちたって死ぬわけじゃないし~」という軽い気持ちで試験に臨んでいた。

試験、中でも面接類は昔から得意だし、緊張しない本番に強いタイプであった。

周りの同業者の子に●●でるそうで、昨日調べたんです、私2回目なんですけど、やっぱり緊張しちゃう…と言われて、『あ~説明会の時にそこについて説明できるようにしておいてください』とか、そんなこと言ってた気がすると思い出したが、今更気にしないことにした。隣の男の子は緊張しているのか、人見知りなのか…(看護師なのに)、話しかけてもなかなかスムーズに返答が来ず、少しずつ話していくうちに色々と教えてくれるようになり、最終的には、「僕は保育園を建てたいんです。」と、論語の本を読みながら言っていた。なかなか受験生のキャラクターは強くて面白かった。今思えばだから訓練所もあのような状況になるのだと納得する。

そして、面接の順番は、遠くから来ている人から行われていくようで、同業者の受験者数が多く、電車1本で急行に乗れば1時間以内で会場に到着する私の面接は、最後から2番目だった。待ちすぎて疲れた。緊張どころでない、眠かった。試験官だって疲れているだろう。長い間の待ち時間であり、最後の方には控室担当者の人と私の後の最後に面接する子と雑談していた。

 

試験から合否の発表までが1か月ほどあった。

長い長い…長い。いろんな人に「ねぇ、結果どうだった?どこの国になった?」などと聞かれて、「まだだよ」いや私も早くどうなったのか知りたい。もうどっちでもいいから教えてくれ、と内心思っていた。

 

1年前の試験発表日。当日は、2交代夜勤の入りの日であった。

午前中から何度が合否発表のサイトページを開くが全然出てこない。諦めて夜ご飯を作り、夜勤グッツをもって、仕事場へ出勤。夜ご飯を食べながら、携帯でサイトを開くとなんと出ている。自分で見るのが恐ろしいため、たまたま同じタイミングで休憩になっていた同期の友人に「ねぇ、◎◎◎◎番の番号がないかさがしてくれない?」とさらりと頼んでみる。

するとすぐに「うん、◎◎◎◎でしょ、あるよ?」と言われる。「え?まじ?ちょっと、かして、みせて」と言い、見ると本当にあった。怖いからダブルチェックして、と受験票と照らし合わせて、本当に正しいことを確認。

「やった~‼‼」と叫びあがり、周りの何も知らない同僚にドン引きされたという思い出。

 

そして、そのとき、「面接のときにモロッコはどうですか?」っていわれたなぁ、たぶんモロッコなんだな…と内心確信していた。

翌日夜勤明けで自宅に帰ると速達が到着。

 

開封する。やっぱり派遣国はモロッコだった。

 

色々な人に合格の報告をしたが、父に「受かったよ、モロッコになったよ」というと、父「おお、もう場所もわかるんだ~中国の上かあ~」。『それ、モンゴルでしょ』とすかさず返答。私以外家族は日本から出たことがないから仕方ないか…。

 

初心に返るとは大事である。

何よりも今自分がここにいることの有難さと貴重さ、気持ちがあって行きたくてもいろいろな事情で涙をのんだ人が沢山いる。そう、面接官に私は「フランス語圏でも、語学は行けば何とかなるだろうし、大変なことだらけだと思うけど、とりあえずどこでも何でもできることはやりまーす」と威勢よく言ったのだから。

 

 

続く。

よくもわるくも、ダリジャ

一日中、ダリジャ(モロッコ方言アラビア語)を聞いていること。

職場では毎日ルチン行為が多い。

それらの影響により、みんな毎日同じようなことを繰り返して喋っていることが多い。

 看護長は、そんなに話せなくて仕事で苦労するでしょ?というがもう全然苦労しない。あなたや教授と話すのが一番難しいと言ったら納得していた。

 

私は、自分の個人としてはフランス語を勉強したいけど、活動中はほとんどダリジャでやりとりするように心がけているし、もともと耳から音を吸収するのは得意な方だし、メキメキと身に付いていく。

 

めちゃくちゃアジア人の顔して、ベラベラとダリジャを話すから、初対面のお母さんには、「あなた、アラビア語話せるのね」と言われたり、面白いらしくニヤリとされたり。また、希なケースには「君はモロッコ人なのかい?」と、そりゃ流石にないだろ…。フスハーアラビア語の先生をしているというお母さんは「どうやってどれくらい勉強したのか?私は●●にすんでるから、いつでもアラビア語教えてあげるわ」と、たぶんこちらの人だから本当に遊びに行ってもウェルカムしてくれるだろうが、説明がざっくり過ぎて、家が全くわからない。

確かに仕草とか、ボディーランゲージとか、ずいぶんとモロッコ人化してきた。

 

職場の同僚にも、「あんたアラビア語上手だ」とか、久しぶりに会った人には「そんなに話せるようになったの」とか。

始めの頃、「君は、アラビア語喋れないのね」と、私を蔑んだ目で見ていた女子たち(たぶん、同世代なのに童顔で年下に見られていた)にも、いつからかどうしてだか知らないが「君はいい子だ」と言ってくれるようになった。そして、私が彼女にアラビア語で聞くと、一生懸命考えながら単語を並べてフランス語で返事をしてくれるということもある。恐らく、職場への感謝の手紙も好印象だったよう。

 

また、アラビア語を多少理解している私にたいし、私の前で下手なことは言えないという多少の警戒感も出てきたらしい。これは内緒にしとくんだよ‼と全く理解できなかった話について釘をさされたりする。また、私も逃げるために何度となくお世話になってきた常套句「わからない」という言い訳もしづらくなってきた。本当にわからないから、「わからない」と言っているのに、「何を言ってるんだわからないわけないだろ‼」と怒られるのには非常に困る。どうしたらいいのだろうかと天を仰ぐしかない。

 

フランス語のリスニングUPのために、職場の人たちには「フランス語が一番わかる、次に英語だ」と言っていたが、次第に英語の方がコイツわかるのでは?と、バレつつある。

英語が話せる人たちは、話せることを誇示したいらしく、わざわざ私に英語で話しかけてくる。英語の内容はわかっても、すぐに出てくるのがフランス語かアラビア語となってしまい、英語はとても考えながら単語をゆっくりと並べないと話せない…たまにフランス語と英語も混ざる。

その上、今日は、ベルベル語を話せる子から「ベルベル覚えてる?おはようは?」と、前回習った言葉の復習も入った。

 

そして、現在、全てぐちゃぐちゃ。

何ひとつパーフェクトに話せない。

他の隊員の中には、語学力UPが協力隊の大きな目的としてモロッコに来ている人もいるそうだ。どうしてモロッコを選んだのだろうか…他の仏語圏の方がいいと思うのに…モロッコに憧れて派遣された人がモロッコには多いから、他の国の隊員と違って、より都会的なことを求めたり、自分のための活動である人や、観光したがったりする人が非常に多い。希望してきた人に限って、文句が多い。色々思うところがある。

 

 

ロッコ隊員が言語がぐちゃぐちゃになってしまうのは、多くあるとと知っていたが、やっぱり仕方ないと思う。ここはそういう国である。このぐちゃぐちゃ感もモロッコらしいと言えばすごくモロッコらしい。私は、活動のためにアラビア語を頑張るし、自分のためにフランス語を頑張る。日本人の中にはここのアラビア語はモロッコしか使えないからと嘆いている人もいる。

 

近いうちに教授や看護長と活動方針を話し合うに辺り、最近行方不明になっているフランス語を連れ戻さないかん。会話に取り残されて、看護長の陰謀に巻き込まれないためにも。

 

アラビア語の音がとても美しくて、私はムスリムではないけど、コーランアラビア語は、聞いているだけでも癒される。お経みたいな感覚なのかと思う。

 

 ここでは全てはアッラーが決める。

私のフランス語もアラビア語も私の努力次第。それは、私が決める。

 

続く。

時間をくれ‼

活動計画を立てる時間がほしい。自分のパソコンを使って、家でやりたいと言ったら、看護長から「勤務が終わってからの16時以降にやればいいじゃん。16時以降なにしてんのよ?どうして、あなたはフランス語も英語もアラビア語も話せないし‥全く、どうしてくれんだ」と言われた…どこまでブラック病院なのか。

言語道断だ、私は仕事は職場で終わらせるスタンスなんだ。16時以降は私の時間だ、息抜きをさせてくれ、じゃないと2年もない。日本でも勉強会やセミナーや論文作成とかは時間外でやるし、病院に残って勉強したりしたことはあるが、主体的にやるもので強要されるべきでない。

もしも、現場にいる看護師が100%全力で仕事しているなら私もそれくらい頑張りたいと思うが、看護師は私に仕事を押し付けてサボっていることが多い。

その上、こんなことを言う看護長。

私がいつもニコニコしてるからって、なめやがって‼私が全てを伝えてるわけじゃないと言うことを知らないから仕方ないのかもしれない。いつもへらへらしてるように見せかけてるけど、めちゃくちゃ色々考えて上手く立ち回るように努めてるも知らない。しゃべれんけなめんのいい加減にせいや‼(ふと、研修所で酔っぱらって暴れてる同じ班の男の子が危なすぎて怒ったら、怖がられたのを思い出した。)

非常に頭にきたが感情で対応しても仕方ないので、最後の手段に出る。絶対に一撃で効くと知りながら今までずっと使わなかった。脅してるみたいで本当はこんなこと言いたくない。

冷静に「もういいわ。別に私はいつでも日本に帰れるの。もしあなたが望むなら、私はいつでもここを辞めるわ。他の病院からもおいでって言われてるし。」と言うと、看護長「ちょっと待って待って、わかったわ、時間をあげるわよ。どれくらい何日ほしいの?」と。

こんなことしないと受け入れない、そういうレベルなんだと改めて痛感。なんて幼稚なんだ看護長。しっかりしてくれ、私はあなたをリスペクトしたいんだ。

 

そんな午後を先日過ごし、今朝、教授に「先週看護長とも相談して計画を立てたいので、今週の午後の時間帰宅してプランの準備をしたい。」と言うとあっけないほどすぐ、「勿論よ、やりなさい。作ったら私に見せてね。看護長たちと話し合いましょう。全く問題ないわ。」と言ってくれた。感謝、そういってもらえると、ちゃんと午後も計画立てたり、プレゼン作ったり頑張ろうと思えるのに、どうして看護長はそういうことができないのか…仕方ないのだろう。たぶん、それができないから途上国なんだろう。

教授は、先進国に留学した経験もあるから先進国での道徳観も仕事の捉えかたなども良く知っている。彼女は多忙であんまり彼女と直に話せる時間は少ないが、いつもにこやかに話してくれる。できれば教授と直でやり取りしたいんだが、看護長は先に話を聞いていないと「私きいてない」とご立腹するし、たいてい何かを看護長に言うとそこで私の話は否定されてストップ。看護長がご立腹するのも教授はわかってるから、先に看護長に話を通せと徹底する。そして結果的には何も進まない。そして、私のストレスは溜まっていく。

この負のスパイラルは協力隊あるある。

 

特にここの看護師は、みんな自分のことしか考えていない。自分の身を、自分のラクを、あんじて仕事をしている。とりあえず、私は自分が好きな直接母乳の介助や家族との会話を楽しんで家族と関係をつくり、楽しく仕事をしている。やる気のある女医たちには何かできるかもしれない。何を求めているのかゆっくりリサーチしてみたい。

 

プランを立てるにあたり、これは私のための物でなく、あなたたちがこの病院のためなんだ。みんなでやるんだ‼、と伝えた上で、マズロー欲求階層説を説明し、だから、こういう順番でやらないかんけ、と伝えてみようと思うが…どうだろう波乱かもしれない。見栄っ張りなモロッカンのことだから、もっと大きなことをやれとか、最先端の日本のケアを教えろとか言い出すのが眼に浮かぶ。志が高いのは素晴らしい、でも今は、そこではないというためにマズローに助けてもらう。

 こちらにきてから、看護学校で習ったことや新人時代に先輩に叩き込んでもらったことをとても思い起こすことが多い。とても大事なことを学んだんだとこちらにきてから、気づくことが多い。

沢山の、日本にはあってモロッコにはないもの。 やっぱり教育が人間をつくる。

 

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ロッコの観光雑誌とかにも載せられそうな写真がとれたと自己満足している一枚。

 

続く。

chellah遺跡の写真たち

先日chellah遺跡の写真。一眼レフの写真が重すぎて時間がかかりましたが、きれいな景色だったので、紹介させてください。

 

 

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ローマ時代の建築物が時を経て、今も残されていて、その経過した時間の長さと重みを遺跡の端々から感じ取れます。

 

イスラム教が入る前のモロッコ人の祖先たちがどのようなことを想い、生活をしていたのだろうと想像をふくらませてみますが、ムスリムでない彼らのことが私にはどうしても想像できません。イスラム圏でなかったときが想像できないくらい、この国にはイスラム教が生活の隅々に溢れている。

 

改めて信仰の影響力の大きさを実感する。

イスラム教が入ってきても、多神教の遺跡を壊すことなくそのままにしておいたモロッコ人にとても好感が持てたし、そこはなかなかモロッコ人らしいし、ムスリムらしい。

 

続く。

幸せなとき。

日本でもモロッコでも、仕事をしていて幸せを感じる瞬間は一緒。

 

入院せざるおえなかった赤ちゃんが育って、無事に退院できたとき。

働いている私たちにとって、目まぐるしく入退院は繰り返されるから、沢山あるなかのたった一人の赤ちゃん。だけど、お母さんたちにとっては苦しみと悲しみを抱えて病院に通いつめ、なんとか母乳が飲めるように、毎日少しでも大きくなるようにと願い続けた日々からの卒業であり、本当の意味での出発のとき。

はじめは点滴に囲まれていた子が、少しずつチューブが減っていき、少しずつ母乳が飲めるようになり、飲み方も少しずつ上達していく。

赤ちゃんはなにもしなくても母乳が飲めると思っている方もいるかもしれないが、赤ちゃんだってはじめから上手に飲めない。

少しずつ、少しずつ、上手になって一人前にがぶがぶ飲むようになる。

 

退院のとき、多くのお母さんは「今日帰るよ。本当にありがと。あんたは、よいよ。」などと言ってくれる。

長くいた赤ちゃんが帰るときは、嬉しさと寂しさが入り交じるけど、嬉しくて涙が出そうになる。

帰った子どものベッドを片付けるとき、私はとっても幸せなとき。

 

ここでは沢山の赤ちゃんが亡くなるから、軽快退院できる子どもの生命力の強さを感じずにはいられない。

 

昼間の長い時間面会しているお母さんの赤ちゃんが亡くなって退院した。

急変をみつけたときは、みんながランチタイム。主治医を呼ぶ。隣のフロアの医者から聴診器を横取りする。担当看護師に来いと言うがランチ中だから、来ない。(日本では急変をみつけたらその場を離れないが原則ですが、この国は叫んでも誰も来てくれないこともあるので、とりあえず顔を見つけて人を引っ張って連れてくる必要がある。)

 

何日か前から、近いうちに急変するだろうと思っていた。ロッコの医療レベルのなか、この子はとても頑張っていると思っていた。

主治医の女医はとても熱心にケアをした。流石に、これは手を出さないかんとついついあれこれしてしまう。でも、そんなことしたって私のただの自己満足。でも、急変する子はほとんど帰ってこない。一通り、ここでできることをした後に、また徐脈。またケアしようとする私に対して主治医は、首を横にふり、もうしないと言う。そして、病室から引き上げていく。

 

今まで、私がモロッコに着てから、看取るときに家族がいたことはなかった。

お母さんは、ランチを食べて帰ってきたところで、我が子をみてパニックになりスタッフに取り押さえられて囲まれていた。

彼女の姿を目の当たりにし、どんなに信条を持っていてもお母さんが我が子を失う辛さはみんな同じだと再認識する。周りのスタッフも流石に何人か涙ぐんでいた。

 

お父さんは気丈にも病室に入り、子どもの足をさすり、足にキスをして退室する。もう亡くなったかのよう。

徐脈ではあるが、まだ子どもは生きている。

お父さんにだっこしてもらおうよと提案してみるが却下される。チューブがあるからと。何を今さらいっているんだ‼普段ずいぶん乱暴にルート管理しているくせに‼私がみてお父さんを助けるからと言っても、ノー。

 

身体についた血液を拭き取っている間に、亡くなっていった。

 

宗教や文化も違うから、看取るという感覚も違うのかもしれないけど、最期はお母さんお父さんに囲まれて抱っこされて看取ってあげたいと思うのは私だけなのかな。

私だけなのかな。

 

とりあえず生きてる子たちが少しでもより健康に育つように。立派に育って、30年後、50年後のモロッコの未来を背負って立つ人間になってくれたら本望だ。

 


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4か月ぶりに感動の再会。しかも中国製でなく正真正銘のメイドインJAPAN!!!

別にそんなに味噌を渇望してなかった。毎週のように近くを通るけど、アジア食材が手にはいる店だと思い出してフラーっと入るとたまたまみつけた。

見た瞬間、わーっと涙が出てきて味噌~‼と叫んでいた。いや、味噌だけでこんなに感動するんだから、日本に帰ったら大変なことになるだろうな。

そんな感動の再会をしたのに、今日のメニューは味噌を使わず、ガーリックベースのトマトソース作ったり時間をかけてオニオンスープ作ったりしている…美味しかった‼


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折角買った味噌、700円もしたんだ‼

味噌使うんだ、私よ‼

パスタ美味しかった。ニンニク3房とトマト6個、玉ねぎ6個で200円くらい。自炊楽しい。

 

 

続く。

風邪、時々、chellah遺跡

ロッコに来てから、何度ととなく体調を崩した。

始めは体調を崩して熱を伴ったが、現在は鼻汁やくしゃみ程度があったり治ったりを繰り返す。この4か月で日本の何年分の風邪をひいたのだろうか。

ロッコに来てからいくら体調を崩しても食欲を失うことはない。有難い。栄養管理はとても大切。

 

こんなに風邪をひく要因の外的因子として。

ロッコ人自体がとてもよく風邪をひいている。職場では誰かがいつもくしゃみをしていて、誰かがいつも「私体調が悪いの」と言っている。でも、感染管理なんてない。コップは洗わず使いまわし。トラディショナルな食事スタイルとしては、家族で一つの大皿から手で取って食事するスタイル。くしゃみや鼻水があったってマスクなんてしないし、平気で人に向かってくしゃみや咳をする。感染症を円滑に運搬しているように見える。

内的要因として。

私の身体にモロッコのウイルスの免疫がなかった。知らぬ間にたまるモロッコストレス?の影響が大きい。循環器、新生児科のクリーンな病棟で勤めて、仕事中も常にマスクをして仕事していたため身体がウイルスに弱い。運動不足、こちらにきてから私の考える運動ができていない。ラマダーン中に断食で身体を極限まで省エネする力を身につけたため、全身が脆弱化しており未だ回復していない。私のNK細胞がサボっている、というのは冗談。

とりあえずよく食事はしているから、発熱したりする重症化を避けられているのであろう。身体を強くしないといけない。外がうるさくて時々眠りが浅くなることもあるが、睡眠も充分に取れている。

 

運動だ運動‼

鼻水をたらしながら、先日、考古学博物館の人に教えてもらった遺跡に行ってきた。行きは頑張って歩いて向かい、帰りはたまたま送迎できていたタクシーで帰ってきた。

当日モロッコは祝日であったため、モロッコ人は入場するのが無料だったそうで人が多かった。沢山アラビア語を話してみたが、君は外国人だろって言われ、しっかりと100円請求された。職場の人には「君はもうモロッコ人だ」と言われているのに…アジア人の顔はごまかせない。別にお金はいくらでも払うんだが、外国人と言われると少し切なくなる。モロッコの観光地では、首都はほとんどないよねと言われてしまいがちであるが、住んで探してみると見どころは色々見つかる。

折角だから旅行では知れないモロッコを。

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入口はとてもモロッコ式。

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中に入ると一気にタイムスリップ。普通にあるのがすごい。

インターネットの接続が悪く、載せたい写真が全て上げられない。

遺跡の続きはまた。

 

続く。