疲労の原因

こっちに来てから、なかなか気力がもたなくて、たった週5、7時間病院にいるだけで、-しかもそれは日本の労働量と比にならないくらいまったりとしたもの-非常に疲れる。

ただ、運動不足で体力が落ちているのかなとか、やっぱり異国に慣れたと思っていても、まだ慣れていないのかな、とか、色々考えらえる疲労の可能性は沢山あったから、きっとそのせいだと思っていた。恐らく、その影響もあるだろうが、自分の中の主な原因が突き止められた。

恐らくは、看取りが多すぎることにより、自分の精神的な苦痛がなかなか消化しきれないことにあるのだという結論に至った。

多い日は一日2件とかある。

こっちでは家族のメンタルサポートを積極的にしようという心はあんまりない。こちらの人は沢山子どもをうむから、そのうちの何人かはダメだったという人の話も聞く。スタッフもまた次を産めばいいというようなことを言い母を励ましたりもしている。でも、子どものベッドサイドで涙を流している母親を一人になんてできない。私は、ひたすらずっと横にいたり、軽く会話してタッチングを促したり、母親の背中をさすったり、手を握ったりしている。お祈りしながら子どもの体を触っていたり、涙を流し続けたり、呆然と表情を硬くしたり、人ぞれぞれであるが、みな苦しんでいる。その時間の重さと言うのは、時間がとまったように感じるほどこちらも辛い。お腹の中に子どもがいると自覚したときから女性は既にお母さんになっている。生まれてからの歴史ではない。

別に看取りの方向性でなくても、点滴1本、経管栄養チューブ1本だって、採血の後の絆創膏一つだって、母にとっては苦痛である。

 

一人でやるからこんなに疲れるのかとも考える。

でも、元気になって退院した子どものお母さんたちは私のことを覚えていてくれて、つい先日も出勤時に外来で私を見かけて声をかけてくれて「うちの子と写真撮って」と、子どもに「ほら、コーキーよ、あんた」と言って聞かせたり、大きくなったでしょと言い私に抱っこさせたりしてくれる。

その瞬間の嬉しさは新生児看護師の冥利に尽きる喜びなんだが、現場のスタッフはそこまで一人一人の患者への思いはないようだ。

そういうのが新生児看護師の幸せなんだけど、なぁ。

でも、疲労の原因がわかったから、その量を自分でコントロールすればなんとか2年間いられるだろう。

 

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こっちの伝統的な服を買ってみた。なかなか気に入った。町の中の仕立て屋さんに、裾上げしたいとお願いしたら、くっちゃべりながら30分くらいかけて…やってくれたが、しゃべってるうちに仲良くなって、結局お金はいらんよと言ってくれた。すごく素材のいい服を仕立ててたから、いつか買いに行くよ。たぶん。

 

続く。

復活

しょっちゅう急変はある。

大概の場合、一回目にはアドレナリンを使用して回復。しかしその直後、二回目の時には、回復できずそのまま看取りとなることが多い。また、もし二回目に回復できたとしても、その日の夜を越せることはほとんどないように感じている。急変時の対応については、つっこみどころ満載なのだが、何を言ってもこれでいいんだと話を聞いてもらえない。仕方ないので、私は必要なものを走って取りに行ったり、邪魔なものをどかしたり、そんなことをすることが多い。

 

その日も、朝から多数のスタッフに囲まれて、吸引、酸素、マスクバック、胸骨圧迫などあれこれした上で、回復できない子がいた。しかし、アドレナリンを入れて回復。

その数時間後に再度、心肺停止して、同様の蘇生をされている。今度は回復しない。医師はいつものごとく「もう終わりだ、何もしない」と言い、子どもの元を離れていった。処置の激しさで、身体に血がついている。看取るにしてもこんな血まみれな姿でお母さんたちに引き渡すなんてどうしても耐えられないし、独りぼっちになんてさせたくないので「身体をふいてあげてもいいか?」と医師に聞くと「それはいいね」と言ってもらえた。

湿らしたガーゼで身体について血液を拭きとりながら手をぎゅーっとにぎり頭をなでなでして「がんばったね~、えらいね。あなたが大好きよ」などと日本語で話しかけていたら、なんと身体が動いた。びっくりしてモニターを確認する。

モニターを見ると心拍数が少しずつ上昇し酸素飽和度が少しずつ上がっていく。

数分後には、酸素飽和度100%、心拍数140回/分。眼を疑った。モニターを疑った。何かシステムの誤作動かなんかかと。

赤ちゃんは何事もなかったかのような顔をしながら規則的な呼吸をして寝ている。

こんなに長時間にわたり脳の低酸素状態が続いたから、色々と心配はあるけど…なんの薬を使うこともなんの処置をすることもなく、ただ身体を拭いていたら、復活した。 

何より、私が一番びっくり。気が動転して狼狽える。少し怖かった。

 

この子の生命力の強さと生きたいという意思の強さをひしひしと感じる。たぶん、とっても強く生きたいんだろうなと考えていた。

とりあえず、主治医をひっぱってきて「見てこれ」と言うと、「あら、コーキー(私のこと)、トレビアン」と言って去っていった。

付き添いしていた母が急変の間、離席させられていたので、廊下の母に大丈夫だと伝えた。 

看護長に呼ばれ「ちょっとまってくれ、今子どもが大変なんだ」といっても聞いてくれず「いいから、とにかく、会議だから来い、来い」といわれ、不安ながらも離席。一人になったら、寂しくて具合が悪くなったらどうしようと心配だった。

でも、私が帰宅する前も、すやすやと寝ていた。

 

翌日。

朝、ベットがあった場所に子どもがいない。付き添いしていたその子のお母さんが荷物の整理をしていた。声をかけるが表情が非常に明るい。

私は状況が全く読めず、周りをよく見ると、子どもがベッド移動されていたようだった。なぜか保育器から脱出し、赤ちゃん用の小さいベッドにいた。しかも酸素も使用せず点滴1本で過ごしていた。どうして保育器からわざわざ出したんだ?それよりも、どうしてこんなに元気なんだ?本当に昨日と同じ子か?

何があったんだ。モロッコには不思議なことが溢れている。きっと、これも全てアッラーのおかげなんだろう。全くわからないが、とにかくこの子の生命力は強い。

赤ちゃんって本当にすごい。

 

その翌日。

今度は、その病室にその子の姿がない。私は勝手に、さすがにもう駄目だったのかな。と思っていたら、重症部屋の方に母がいて、移動になってこっちに来たんだと言っていた。そして、こどもの面会中に、呼吸器のアラームにとらわれることなくイスを並べて足を延ばして爆睡する母。

いや、子どもも図太いけど、母が図太いから子も強いのかもしれん。たぶん、少しずつ具合は悪くなっていくだろう。

でも、この子はとっても強いし、意思の強さをひしひしと感じる。

 

 

 

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写真は今回の内容には全く関係ないけれど、先日、電車の車体にとてもきれいな宣伝があったから思わず写真を撮ってしまった、その写真。しかも、この列車には乗らなかったんだが…。

 

続く。

来モ

来モ(=モロッコに来ること)

私が、モロッコに行きが決まったとき、多くの人に「夏休みはモロッコに遊びに行くからね~」と言われたが、これは一般的に行く行く詐欺(笑)で、まさか本当に来る人がいるなんて夢にも思わなかった。ウィンドサーフィンをしていると、天気図などから「今週末は吹く‼」とか、「明日は波が入る‼」とか、みんなの期待が高まるとなぜか風は吹かずに波も入らないということがよくあった…。それは、吹く吹く詐欺として有名な話で、「誰だよ~吹くって言ったの~‼」と笑いあっていた。

 

日本からモロッコへ行く飛行経路としては主に下記の2パターン。

①日本-フランス-モロッコ、②日本-ドバイOrアブダビ-モロッコ

自分が実際に来るときもそうだが、2年留まるとわかっていたから耐えられたが、長い長い…長い。私は飛行機が嫌いでないタイプだからまだいいのだろう。

映画を何本もみて、機内食、一緒に来た仲間と飽きるほど話して、機内食、寝て起きて、機内食‥‥

私にとっては気持ちを整理しながら来るのにちょうど良い時間だったとも言える。

 

元職場の同僚が、年に一度しかとれない貴重な長期休みでモロッコに遊びに来てくれた。ツアーだったため、彼女たちの初日の夜の数時間会う程度であったが、夕食までの時間をタクシーで町の案内をしたり、スーパーで買い物をしたり、アラビア語を少し伝えたり、事前に用意しておいたモロッコ土産とお願いしていた日本物資を交換したり、職場に手紙をたくしたり…有難い。

いや、もともと、バックパックとかするタイプの人たちでないから、モロッコで不便だったり、観光客へのあたりもきついことも多少あるからいやな思いをすることもあったであろうが、念願の砂漠に行けたのが嬉しかったらしい、楽しいと言ってもらえてよかった。事務所の規定で、メルズーガやアルフード、ザゴラなどの地域に私は行けない。仕方ない。帰国してからまた遊びに来るしかない。

 

また、友達が来て話をする中で、ここで自分がどれだけ貴重な経験と時間をさせていただけているのかも再確認できた。 ここでの生活が当たり前になっているけど、きっとあっという間に2年間終わってしまうんだろうな。

日本に帰ったら、違った意味でまたカルチャーショックを受けるんだろうな。それはそれでしんどい。日本のカツカツした感じに戻れるかな…日本の病院で働けるかな…厳しい。

職場で、どうしてそんなに君はテキトウなの?とか、ガサツ‼とか、キタナイ‼とか…言われそう。

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アルガンオイルやサボテンの実のオイルなどをプレゼントした。モロッコは女子の旅行には楽しい国である。

任国外旅行の問い合わせも入った。色々と予定が入ってきて、おちおちボーっとしてられんけん。

 

続く。

久しぶりの初めて

イード休暇までの期間が夏のバカンスシーズンの雰囲気です。たぶん、もう少ししたら、日常生活に戻ろうかというところなのでしょう。

いつも、面会受付から入退院管理、ベットコントロールまでを一人でこなすとても働き者のスタッフがいる。私は、以前からもしも彼が風邪をひいて休んだりしたら、病棟はグチャグチャになり、きっと機能しなくなるのだろうと予測していた。

そんな彼もバカンス休暇となり、病棟から姿を消した。予想外に、セキュリテに関しては守衛室から番人を交代で駐在させ、彼らに少しずつ勤務を内容を副師長が指導して、何事もなかったかのように病棟がまわっていた。今まで誰かがいなくなると、彼女がいないから仕方ないんだと言い訳をしたり、人のせいにしている場面をよく目撃していたが今回はしっかりと彼の休暇をカバーする対応がなされている、感激したことは言うまでもない。

そんな代理できたセキュリテの人と話していると、二言目に「君はムスリムか?」と聞かれた。「いや違うよ。とてもリスペクトしているけど。あなたはムスリムでしょ?」と言うと、予想外の返答があった。

「実は、内緒だが、私はムスリムではないんだ。」と言われた。

驚き過ぎてなんと返事をしていいのかわからず、「ええぇ~‼‼‼それ、ほんと?で、あなたの宗教は?」と質問すると、

「クルスチャンだ、モロッコにもわずかにいる。でも、これは内緒なんだ。」と言っていた。

ラマダンもしない、モスクへの礼拝もしない、モロッコ人がいるなんて。確かに、統計上ほんのわずかにクルスチャンがいることは知っていたが、きっと移民や仕事で出稼ぎできている人たちのぶんなのだろうと考えていた。もうずいぶんこちらになじんできており、だんだん初めて見た聞いたということが少なくなってきたのだが、私にとって多少衝撃的であった。

聞くと、彼の片親はドイツ系で彼らがクリスチャンであるから、彼の家族はみんなクルスチャンだそうだ。確かに顔つきがいくぶんヨーロッパに近いようにも感じる。

きっと少数派マイノリティとして、少なからず苦労があるのだろう。その苦労を知っているからこそ、それ以来、ムスリムでない私に親切にしてくれるのだろう。

私は2年で帰国するが、彼はほとんどがムスリムの中で恐らく生涯生きていくのだろう。ラマダーン中などはとても生活しづらいはずだ。彼は勿論、モロッコ方言アラビア語を話していた。アラビア語にはイスラム教と関連した語彙が日常的に使用されており、私も彼らと会話するときには使用しているが…彼はその言葉を使うのだろうか…

彼に聞いてみると「神が望むなら」「神様のおかげで」という言葉は使用しないと言っていた。私は信仰心からではなく、彼らの口癖として移ってしまっているためアラビア語を話しているとつい話の流れで「神が望むならね(本心としては、気が向いたらねとの思いで使用)」とか「神様のおかげで(日本人の『お陰様で』のニュアンスとして使用)」しまくっている。

 

きっと顔も人種も違って、明らかに違う思想をもっているとぱっと見で理解されて、しかも2年間の期間限定の私の方が彼よりもはるかにモロッコで生きやすいだろう。

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続く。

なぜ、カウンターパートとの関係づくりに苦慮する必要があるのか?

表題にある通り。

よく、協力隊関係者やOVの方々から「カウンターパートとの関係を良好にすることで活動がうまく行くようになる」とか「カウンターパートとの関係を大切にした方がいい」という意見や話をよく聞く。

 

私にとってそれは教授であり、彼女は大変多忙であり、現実的に活動のパートナーになってくれるのは看護長。

勿論、大切にするし、したいと思うし、彼女の医療に対する情熱をとても尊敬している。でも、どうして私が彼女のことを大切にする必要があるんだろうかと考えるとどうしてもしっくりこなかった。確かに彼女が私によい印象を持ってくれたら、いろいろやりやすくもなると思う。それが結果的に赤ちゃんや家族のためになることは勿論だろう。 正直、今の段階で私と彼女が良い関係とは思えない。話も聞いてくれないし、意見を伺っても教えてくれない。彼女にとってのボランティアとは、ただ長めにいる研修生程度の感覚なのだと感じている。それ以前の問題として、教授に話をする内容の了承を看護長たちになかなか得られない。看護長たちさえも、忙しいからとなにも聞いてくれないし、教えてはくれない。

全てスタッフづてで、だいたいの情報を得ている。またポジティブに捉えれば、末端のスタッフよりも知的レベルが高い分、色々と警戒心やプライドもあり、私とベタベタしにくいという内心もあるのかもしれない。そして、ポジティブに捉えれば、スタッフとの関係づくりは比較的良好であるともいえる。医師、看護師、研修生、清掃スタッフ、倉庫担当、などなどの各方面のスタッフに好印象を持ってもらえており、「君はいい子だ」と言ってくれる人もいるし、「どうして、彼女とはセルフィーしたのに私と撮ってくれないのよ‼」とか言ってくれるスタッフもいる。本当に幸せである。

きっと、自分を受け入れてくれる人がいる場所があることは、相当恵まれて幸せなんだろう。

 

私が、苦慮してまでカウンターパートとの関係づくりに力をいそしむべきなのだろうか?いや、どうしてそこに悩まなくてはならないんだろうか?

と、ふと疑問になった。

ただでさえ、生きているだけで、多少ストレスを抱え、日本よりも疲れる。

その上、私がカンターパートとの関係づくりに力を尽くしてどれくらい赤ちゃんと家族にフィードバックできるのだろうか?もともと、私に与えられた時間は2年しかない。関係が良好だとしても、末端のスタッフたちが、私のことを良く思ってくれなかったら、いくら教授が言ったって、「教授の前ではやるけど、いないときはやらない。」という、いつものパターンになることが眼に見える。

 

もし、教授の了承がないとフィールドに行けないタイプの派遣の隊員はカウンターパートは命綱になりかねない。でも、ポジティブに捉えれば私はたとえどれだけ関係が悪化しようと、彼女たちが私に「もう病院に来ないでくれ」と言わない限り(人手不足のため現実的にあり得ないが…)、私は朝の8時から夕方の16時まで病棟にいられる。その中で、看護師や医師と関わり、赤ちゃんやお母さんたちと関われる。

 

そこにストレスを抱える必要があるくらいなら、一人でも今いる赤ちゃんたちやお母さんたちに「どう?元気?赤ちゃん可愛いね。少しずつ大きくなるから大丈夫だ」と、声をかけていったほうがいいのではないかという考えも出てきた。

 

そのことに気づいたら、非常に楽になった。

たぶん、国際協力の一般的な手法では…とか考えだしたら、私は正しい方法をとっていないであろう。でも、今、私が可能な最大限パフォーマンスを可能にするためには、いかに減らせる限りのストレスを減らしながら、力を注ぐべきは、これからモロッコで長く生きていくであろう、赤ちゃんとそのお母さん、若いスタッフ、若い医者たちにアプローチして少しでもいろんな可能性があることを知ってもらった方がいい。

 

仕事ではないから、結果が数字で出せなくても、研究結果がでなくてもいいのだ。ポジティブに捉えれば…私の活動が眼に見えなくても、モロッコの人たちに伝えたくて大切にしたいことをコツコツ2年間やっていくスタイルでもいいではないかという結論に至った。

 

いろんな意見を聞いて、多少その意見に振り回されることもあったが、現場にいるのは私だし、実際に活動するのは私なので、意見を聞いても自分の思うとおりにしようと決めた。

 

※カウンターパートとは、JICAのJOCV,SVにとって活動のパートナーとなる人のことです。 

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続く。

卒業パーティ

医師免許取得後に、新生児のエキスパートの研修のために、医師が研修に来ていたが、この度をもって卒業となったそうだ。

8か月間、当院で研修していたとのこと。時には教授の罵声を浴びたり、思うように赤ちゃんの経過がいかずに、悲しい思いをしたことも数知れず。ラマダーン中は倦怠感で朦朧とする意識のなか必死でケアしたり…

そんな彼女たちが卒業していくため、お菓子とジュースでパーティをした。

日本では考えられないが…病棟フロアの中にテーブルとお菓子、ケーキ、ジュースを用意し、みんなでおしゃべりしながらいただく。その間、面会は中止して外で待っていてもらう。モニターのアラームはいつもの如く鳴り響いているが、ここではアラーム対応よりも、みんなの労をねぎらいあう方が優先。私も一緒にお菓子とジュースをいただく。病棟に入ってすぐに良くわからない頃に、不安そうな私に英語でいろいろ教えてくれた優しい女医さんたち。彼女たちがいなくなるのが本当に寂しい。彼女たちにとても救われて過ごしてきたことを気づかされる。

彼女たちが、今後モロッコの子どもたちの健康を担う立派な医療者になることを願うばかり。

10年後、30年後が楽しみである。みんな、おめでとう。そして、ありがとう。

一気には変われない、きっとこの国のペースで少しずつゆっくり良くなっていくだろう。

 

また、新しい医者がくるだろう。

気持ちを切り換えて、全ては赤ちゃんと家族のために。

 

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続く。

عيد الأضحى 、Eid ul-Adha 羊犠牲祭

犠牲祭。

※※※   下の方にややグロテスクなものがあります   ※※※

 

イスラム教の行事であり、家族で集まり、生贄を捧げ、とさつし、家族みんなでそのお肉をいただくという行事。全てのムスリムが行うが、地域によって生贄の動物は異なるが、モロッコの私の住んでいる地域では羊がオーソドックスである。お金持ちはラクダを買ったり、お金のないものは鶏にしたり、他は馬だったり、ヤギだったりするそうだ。

前後一週間程度の期間は、みんな忙しそうにしている。あちこちの家から羊の鳴き声が聞こえ、バーベキューセットがお店で売られ、餌用のわらも売られており、お店も締まっていることが多い。都市部に出稼ぎしている人も、地方の田舎へ帰って過ごすそうだ。帰省混雑もあり、電車もとても混んでいた。

日本のお正月のような雰囲気だと教わった。確かに納得する。家族そろって、田舎へ帰り食事をする。そして、動物をとさつして解体するというイベントがある。

 

イスラム教のイベントは少なく、有名なラマダーンとそこまで日本人になじみのない羊犠牲祭の2つが主。

 

 

折角だから、どこかの家で羊を裁くところを見せてもらいたいなと思い、家を出る準備をして家の鍵を閉めている途中に、一人の男性が階段を上ってくる。「羊、まだ?やるところみたいんだけど?みられる?はじめてのイードなの!」というと、快諾してくれた。アッツィをごちそうになり、その家の4歳の男の子とスーパーマンVSスパイダーマンの戦闘ごっこをひたすらするという体力勝負も予想外なこともあったが、ヒツジさんがさばかれ、手際よくあっという間に解体され、バーベキューとなって出てくるところまでご一緒させていただいた。

 

男の子も、ヒツジにいい子いい子して頭をなでていた、とさつの現場も周りを走り回ったりしながらもその様子を見ていた。そして、さっきいた羊さんだと彼の中で一致していないだろうがヒツジさんのお肉をもぐもぐ食べていた。彼はどう感じているのだろう。

去年のイードを体験した日本人は、今年はこりごりだという人もいれば、イードのお肉は新鮮で美味しいから、家々を梯子しまくって、食べまくるという日本人まで様々。

 

私も、ジンギスカンはいまいちかなとおもっていたのだが、イードのお肉はとっても美味しい。私が美味しい美味しい言ってすごい勢いで食べるもんだから、その家族は、これも食べなこれも食べなと自分のくしを私のお皿に置いてくださった。モロッコ人は、とっても暖かい。

 

田舎ではとさつから解体まで全て家で行うことが多いそうだが、最近は解体業者を予約して、業者が回ってきたタイミングで、とさつするそう。

でも、家長が「ビスミッラー(神様に感謝して始める)」といいひつじさんをとさつするというのは、伝統のようだ。

 

 

 

たぶん、自分の仕事柄、多少グロテスクなものを見ることに慣れていることもあり、もともとなんでも食べものはすべて命をいただいていると認識して食事をしていることもあり、あんまり抵抗はなかった。でも、鳥をしめて買うのにも抵抗があるというこっちの日本人もいる。でも、その気持ちもわかる。

でも犠牲祭のあとから、いただきます「ビスミッラー」の言葉の重みも変わった気がする。

 

家のなかが血まみれになるのは大変なので屋上や庭を使うことが多いらしい。

 

この子、オスの羊さんでした。

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業者さんに抱え込まれポジションを整えて今からビスミッラーで始まります。

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首の太い動脈から十分に血を出し、息を引き取ってから、頭と毛の処置などをして、内臓などを取り出していきます。とてもスムーズでした。

 既に町で売られているお肉の固まりと同様の状態まですんでいます。

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初日は内臓を頂き、他の部位は、一日寝かして熟成させてからいただいたり、1週間前後、ヒツジのお肉を食べ続けるそう。

 

 

途中、日本人はどうやってご飯を食べるんだ?と聞かれ、お箸をつかうんだと伝えるとみんながお箸の練習をしてヒツジを食べていた。 モロッカンなかなか器用である。確かに、刺繍やらペンキ塗りなら、ものの修理やら、器用さを感じることは沢山ある。

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とさつから、ランチのご馳走まで、感謝。

そして、食後も4才児との戦闘ごっこ、サッカー、風船落としちゃダメゲーム、おいかけっこ、「ゴーン、ドーン、シューン」と効果音付きの戦いは永遠。疲れすぎた。

 

どうりで、ランチの時にお腹すいていたんだ。子どもとひたすら遊んでたからだ‼

 

奥さんがお寿司好きよと言っていたから、今度作って持っていこう。

 

続く。