メクネス、ムーレイドリス、カルメット

三連休を利用して、看護の先輩隊員さんに声をかけてもらい、フェズ刺繍組合のお買い物ツアーに行ってきた。

私にとって、初めての首都脱出。初めての電車。初めてのグラタク(グランドタクシー:長距離移動用のタクシー)、初めての外泊。素敵な人にも出会えて、初めて尽くしの最高の旅行であった。

首都メクネス間の電車の車窓からの風景は、一面のオリーブ畑、牛や馬、ヤギ、ヒツジの放牧。まっさらな大地が広がっており、首都とのギャップがとても大きい。

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3時間ほどで、メクネス駅に到着。何もしないで立っているだけで汗が流れるほど暑く、太陽の光が強くて眼が痛く、サングラスが外せない。日中は外に人がいない。暑すぎるので日没後から動き始めることが多いそう。

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 メクネスの町を案内してもらい、他ではなかなか見つけられないデザインのバブーシュを発見。今までなかなか買い物をしてこなかったし、とっても気に入ったので思いきって、購入。

 


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翌日には、メクネスからグラタクを
Moulay Idriss Zerhoun مولاي إدريس زرهونムーレイドリスという町で乗り継ぐ。

 

Karmet Ben Salemカルメットという村へ向かった。そこに村で女性たちの刺繍組合の支援をしている日本人の女性と出会い、村で刺繍づくりをしているリーダーの女性の家で刺繍の商品を見せていただき、日本人女子四人で仲良く買い物。家でランチをいただいた。

そこで作られている刺繍は、すべて手作業!!!!

とても美しい伝統的な柄がある。コースターやきんちゃく袋、赤ちゃんのおくるみ、ストールなどなど。とっても可愛くて、本当に美しい。

 

ここでは、水道は、毎日決まった1hしか水が出ないため、その時間に水をためたり、夏場は外は40℃越えで外に出られなかったり、冬場は凍結するほど冷え込んだりして、生活環境はとても厳しい。

水をくんでロバに運ばせたり、自分達で家畜を育てて、その日暮らしで自給自足に近い生活をしているそう。

女性たちはその忙しい家事の合間を ぬって、製品作りをしているとのこと。近頃は機械で作るものが安く売られるようになり、手作業の刺繍を作る人が減ってきてしまっているとのこと。

私達日本人がくるからと製品を急ピッチで作ってくれたそう。とっても嬉しい。

出来上がった商品のほとんどをみんなで買い占めてしまいました。犠牲祭前なので、村の女性たちは、まとまったお金もほしい時期であり、とても喜んでもらえた。私達は、可愛いお土産が買えて嬉しい。

みんながハッピーになれた。

とても嬉しい。

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コースター
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 犠牲祭前なので、羊が!!!!

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 こっち向いて~っていったら、「めー!!!(なんだよ~)」と言われ、あとにしようとしたら、もう一度「めー!!!(帰るのかよ~)」と言われた。

 

 Moulay Idriss Zerhoun مولاي إدريس زرهونムーレイドリスという町。ここは聖地。数十年前まで、ムスリム以外は入れなかったそう。毎年8月には、ムッセムというイベントがあり、巡礼に沢山の人が集まるそう。坂ばかりで歩くのは本当に大変だが、とっても素敵な場所。

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 ムーレイドリスにすんでいる日本人女性にとっておきの場所に案内してもらう。

 

色々なお話を聞いて、この数ヵ月の反省するとともに沢山の学びを得た。

 

ラバトで息詰まってた私にとってかけがえのない時間となり、とても贅沢な旅だった。これから先、この三日間を忘れないだろう。

カルメットの村も本当に素敵だった。

また、村の女性たちに会いに行きたい。

ムーレイドリスもとても素敵な場所だった。今度は昼間にも行きたい。

 

必ずまた、帰ろう。

気持ちを切り替えて、自分に与えられた仕事を頑張ろう。

 

つづく。

大興奮の納豆

私と親しい人たちの間では、私がとても食いしん坊で、パンよりお米派であることは有名なこと。「私と言えば、お米」と何人かの女友達に言われている…恐ろしい代名詞を頂いたのである。

定食などを注文するとしても、ご飯の大盛無料なら大盛にするし、おかわり自由なら、おかわりしていた。

 

ロッコでもお米は売っているし、日本米に近い品種のものもあり、たぶん他国よりも質の高い和食を食べて暮らせるのだろう。でもモロッコでは、主食はパンが主流であり、ご飯の付け合わせになるような食事があまりなく、最近ご飯から遠くなっていた。パンにオリーブを挟んでオリーブオイルにつけてたべるのが最近のブームである。美味しくていくらでも食べられる。

 

日本にいたときにモロッコへ来るための準備として、生活道具の処分したり、モロッコの食生活を見据え生活改善したなかで、たぶん自分しかしてないであろうことが、2つある。

 

お米を鍋で炊くこと。

納豆を食べずに生活すること。

 

炊飯器がなくてもお米があるなら、ご飯を食べたい。そして、より美味しくご飯が食べたい。そのために訓練しておく必要があると考え、約1ヶ月間土鍋でご飯を炊いて練習した。

結果的には、一回目で芯が残り、二回目で下が焦げて、三回目で大成功であった‼そして、その土鍋ご飯が美味しいこと‼

炊飯器で炊くよりも早く出来上がるし、断然美味しいし、もっと早くこの美味しさを知っていれば…と思うほど。

 

納豆は、もともと大好きで、3パックセットになったものを買っても一日家にいたら、毎食納豆を食べて一日で無くなってしまうこともあるほど、納豆に依存して生きてきた。

お米が手にはいったとしても、納豆は厳しい。(大豆があるから、作ろうと思えば作れることをあとになって知った。)

 

一人暮しの最後は家の中でキャンプをするような生活。早々に布団を実家に送ってしまったため、家の中で寝袋で寝ていた。夜勤の仮眠ベッドのマットレスが快適過ぎてうっかり寝過ごしてしまったり…そうすると、寝袋よりも寝心地よかったんでしょ?と同僚に笑われた。

 

納豆を断つための訓練をするほど納豆を愛してやまない。訓練が必要だと認識してからもどうしても食べたくなり、ついつい欲に負けて買ってしまったりもして、こちらの事前訓練は難航した。

 

そんな私が、実際に納豆を断ってはや4ヶ月。幸運にもおかめ納豆と感動の大興奮の再会を果たした。

 

そう!!!!この パッケージ!!!!
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 そして!!!!この タレ!!!!

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 おかめ納豆をこんなに喜んで写真を撮る日本人は、一体どれくらいいるのだろうか。

私の大興奮は、たぶん他の人の共感を得ることはないだろうが、納豆に大興奮なのです。

 

感無量です、これこそ、納豆。

こっちの人たちは日本食=寿司!!!!

と言うけれど、私にとっては、これこそ真の和食。でもこの感覚は東日本出身の人だけなのでしょうか?

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日本を出る直前に突然母が「これ、もらったから持ってきな」と持たせてくれた海苔を投入!!!!
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先日の味噌も投入!!!! キャベツの味噌汁を作成。

 

全て、この日に納豆が来るのを待っていたのではないかという和食の完成度の高さ!!!!

 

ご飯を炊いて納豆をのせる‼!!!!

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海苔にご飯をのせ納豆をのせ、贅沢にも口いっぱいにほうばる。一番好きなご飯の食べ方がまさかモロッコで出来るなんて…

納豆がこんなに美味しいなんて‼‼

納豆はどうしてこんなにも美味しいのか。この味を、この食感を、なぜ美味しいと感じるのか日本人!?

30年近くかけて染み込まれた、美味しいと感じる味覚の感覚。

 

ご飯はやっぱり納豆と。

キャベツの味噌汁って、どうしてこんなにキャベツが甘くなるのだろう。

 

ご飯、約2合程をたいらげる。

美味しい。

幸せをありがとう。日本人でよかった。

 食後も、体の中に納豆ご飯とお味噌汁があると思うだけでなんだか幸せを感じる。

 

続く。

出会い

日本はお盆真っ盛り、夏休みシーズンなのだろうか…海、旅行、海、旅行、バーベキュー、川、旅行。私の夏はいつも忙しかった。

 

こちらもバカンスシーズンで学校などは長期休みで9月から新年度を迎える。医療機関はなかなか教育機関のように長期でのバカンスはとれないものの、みな順番に少しずつ休みをとっているよう。しばらくみないな~と思っていると、いい色に日焼けしてすっきりした顔でバカンスから帰ってくる。

 

私は自分の活動がまだ始められてもいないし、情報収集も不十分なので休んでいるわけにもいかず、時期をずらして休暇をとるつもりである。

遊びに来たわけでもないし旅行しに来たわけでもない。自分のための仕事をするために来たわけでもない。モロッコの人のために少しでも貢献すること。ここに居られるのは、本当に運よく縁があってこれただけである。だから、休暇はストレス発散してリフレッシュするためであり、またモロッコへの知識や見聞を深めることで、それが結果として活動にフィードバックするようにしたい。

 

たまたま、モロッコに以前専門家として派遣されていた方がモロッコに帰ってきて、話を伺うことができた。色々なことを伺い大変勉強になった。

一番よかったことは、「何もできなかったとしても、任地の人と良い関係で終われるだけでも十分活動だと思います」と言ってくださり、大事なことを忘れていたことに気づいた。

 

日本の病院にいたときはもちろん、プロだった。

今もボランティアで給料をもらっていなかったとしても自分自身は同じプロである。

JICAでボランティアとは…協力隊とは…国際協力とは…と耳がタコになるほど聞いてきた。

でもここにいると、専門職のプロとしてやることは見えてくる。それでも彼らの行動の裏付けられる習慣や思想もみえて人の行動がそう簡単に変われないことも見えてくる。気になるところにアプローチをかけることが正しいのかもわからない。モロッコの悪いところやできていないところのすべてを変えることが正しいとも思わない。日本の正しいとされていることがすべて正しいとも思わない。ある人から見たらモロッコの悪いところだというかもしれないが、私にはモロッコのその部分がなくなってほしくないと思う部分もある。

結果的に現在の語学同様、活動についても頭の中はぐちゃぐちゃ。

できることはやるが、でも自分の考えが正しいのかもわからない。仕事でないから評価や判断を仰げない。

 

そんな迷走していた私は、今日、元専門家さんの話を聞いて、出国時に目標に立ち戻れた。

まずは、モロッコ人を好きになること。

その次は、モロッコ人と仲良くなること。

活動やら病院やら言っている場合ではなかった。

まずは、人として受け入れられ、ここで愛されること。

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貴重な時間と出会いに感謝。

そして、お土産に専門家さんからは日本のお菓子と、事務所のスタッフから納豆をいただいた。

おかめ納豆だった。もらった瞬間に蓋をハフハフしてすごい勢いで匂いを嗅いで、「あ~納豆だ~‼」と納豆の匂いに癒されてしまった。そんな匂いに癒される自分がちょっと切なかった。スタッフとこんな匂いのする食べ物を喜んで食べる日本人って不思議ですよねと話していた。

 

続く。

ちょうど一年前…

先日、同期の訓練生と電話で喋っていたところ、「そういえば、ちょうど一年前ぐらいに合格発表だったよね~」といわれていろんなことを思い出した。

 

一年半ほど前。

願書提出のために、職場の図書館のパソコンに向かって眠い目をこすって夜な夜な願書を作成。たまたま、隣の病院の先輩看護師に遭遇。助けて下さいと頼み込んでその場で願書の添削をしてもらった。彼は私の比にならないくらい忙しい方なのに、翌日にも時間を割いて見ていただいた。本当に新人時代からお世話になっており、感謝である。ただひとつだけ後悔がある。「お前、もういいよ。お腹すいたから今から飯食いに行くぞ!飲みに行こうぜ。」と誘っていただいた。にもかかわらず、願書がそれどころでなく、期日も迫りまだ願書ができてないからといい、とても飲みに行きたかったが断ってしまった。これからますます活躍していくことの間違いない人で、一緒に飲みに行くのはもっと難しくなるだろう。非常に後悔している。そして多分本人はそんなことを言ったことも覚えていないだろうが、2年後是非ともお願いしたい。図書館でたまたま先輩にあったり…このころから確かに運が私を味方してくれていた。

 

1次試験合格。同業者では確か3/4くらいの受験者が合格しており、倍率は4倍から2次試験では3倍くらいであった気がする。

 

2次試験の日にちは6日間の間のどこかになるか、ぎりぎりまでわからなかった。どうしてもわからないから6日間休みを入れて、後で実際の試験日以外は日勤をするからと看護長に交渉するが、「あなたが個人的にやってることでしょ、5日間で希望だしなさいよ…」と。そんなことを言われたため、休み希望が入れきれず、賭けをして1日目から5日目までの最大の5日間をとった。すると、なんと休み希望を入れていなかった6日目が自分の試験日になってしまった。これではせっかく1次試験を通ったのに、2次試験に行けない。勤務交代も考えたが厳しいシフトであった。なんでたった1日、風邪ひいたりインフルになったら休め休め言うのにこういうところで融通効かないというか…色々と思うところがあった。

諦めていると、主任から電話、「●●さんが急に具合悪くなって、仕事できなくなったから、△を出勤してほしいの、代わりに★を休みにするから」と。その★は試験日。なんという幸運‼

「はい、もともと★は予定を入れたかったのでありがたいです。△仕事しまーす」と返答。ぬか喜びもつかの間残酷にもその直後、「やっぱりさっきの電話辞めにして休みの日××にしてくれない?そのほうが、**さんの勤務が…」と言われたが「主任‼どうしても、どうしても、★の日の休みが必要なんです。その日は実は試験日なんです。どうか行かせてください、一生のお願いです。ほかの日に全力で働きますから‼」と体育会系の頼み込みに主任が折れて、再度の勤務交代の拒否に成功。

そうして、幸運にも2次試験への参加をもぎ取った。試験倍率は単純には3倍だが、自分の職歴と学歴で全ての任地に行けるわけではなく可能そうなのは5箇所くらいしかなかった。他の人がどうなのか知らないから倍率がどれくらい高くなるのか計算できない。でも、この流れの展開を思うと、もしかしたら行けるのではないかという気もした。

 

1年1か月前、2次試験。

周りの人たちはガチガチに緊張しているか軍人のように固く体中を固めてそうな面持ちか、緊張しすぎて多弁な女の子やら。試験なんて久しぶりだなと思いながら、緊張することもなく「まぁ、受かったらどこかへ行けばいいし、落ちたら、在宅医療、保育やリハビリ、療育の勉強しながら、好きなところで働こ~。別にこの試験に落ちたって死ぬわけじゃないし~」という軽い気持ちで試験に臨んでいた。

試験、中でも面接類は昔から得意だし、緊張しない本番に強いタイプであった。

周りの同業者の子に●●でるそうで、昨日調べたんです、私2回目なんですけど、やっぱり緊張しちゃう…と言われて、『あ~説明会の時にそこについて説明できるようにしておいてください』とか、そんなこと言ってた気がすると思い出したが、今更気にしないことにした。隣の男の子は緊張しているのか、人見知りなのか…(看護師なのに)、話しかけてもなかなかスムーズに返答が来ず、少しずつ話していくうちに色々と教えてくれるようになり、最終的には、「僕は保育園を建てたいんです。」と、論語の本を読みながら言っていた。なかなか受験生のキャラクターは強くて面白かった。今思えばだから訓練所もあのような状況になるのだと納得する。

そして、面接の順番は、遠くから来ている人から行われていくようで、同業者の受験者数が多く、電車1本で急行に乗れば1時間以内で会場に到着する私の面接は、最後から2番目だった。待ちすぎて疲れた。緊張どころでない、眠かった。試験官だって疲れているだろう。長い間の待ち時間であり、最後の方には控室担当者の人と私の後の最後に面接する子と雑談していた。

 

試験から合否の発表までが1か月ほどあった。

長い長い…長い。いろんな人に「ねぇ、結果どうだった?どこの国になった?」などと聞かれて、「まだだよ」いや私も早くどうなったのか知りたい。もうどっちでもいいから教えてくれ、と内心思っていた。

 

1年前の試験発表日。当日は、2交代夜勤の入りの日であった。

午前中から何度が合否発表のサイトページを開くが全然出てこない。諦めて夜ご飯を作り、夜勤グッツをもって、仕事場へ出勤。夜ご飯を食べながら、携帯でサイトを開くとなんと出ている。自分で見るのが恐ろしいため、たまたま同じタイミングで休憩になっていた同期の友人に「ねぇ、◎◎◎◎番の番号がないかさがしてくれない?」とさらりと頼んでみる。

するとすぐに「うん、◎◎◎◎でしょ、あるよ?」と言われる。「え?まじ?ちょっと、かして、みせて」と言い、見ると本当にあった。怖いからダブルチェックして、と受験票と照らし合わせて、本当に正しいことを確認。

「やった~‼‼」と叫びあがり、周りの何も知らない同僚にドン引きされたという思い出。

 

そして、そのとき、「面接のときにモロッコはどうですか?」っていわれたなぁ、たぶんモロッコなんだな…と内心確信していた。

翌日夜勤明けで自宅に帰ると速達が到着。

 

開封する。やっぱり派遣国はモロッコだった。

 

色々な人に合格の報告をしたが、父に「受かったよ、モロッコになったよ」というと、父「おお、もう場所もわかるんだ~中国の上かあ~」。『それ、モンゴルでしょ』とすかさず返答。私以外家族は日本から出たことがないから仕方ないか…。

 

初心に返るとは大事である。

何よりも今自分がここにいることの有難さと貴重さ、気持ちがあって行きたくてもいろいろな事情で涙をのんだ人が沢山いる。そう、面接官に私は「フランス語圏でも、語学は行けば何とかなるだろうし、大変なことだらけだと思うけど、とりあえずどこでも何でもできることはやりまーす」と威勢よく言ったのだから。

 

 

続く。

よくもわるくも、ダリジャ

一日中、ダリジャ(モロッコ方言アラビア語)を聞いていること。

職場では毎日ルチン行為が多い。

それらの影響により、みんな毎日同じようなことを繰り返して喋っていることが多い。

 看護長は、そんなに話せなくて仕事で苦労するでしょ?というがもう全然苦労しない。あなたや教授と話すのが一番難しいと言ったら納得していた。

 

私は、自分の個人としてはフランス語を勉強したいけど、活動中はほとんどダリジャでやりとりするように心がけているし、もともと耳から音を吸収するのは得意な方だし、メキメキと身に付いていく。

 

めちゃくちゃアジア人の顔して、ベラベラとダリジャを話すから、初対面のお母さんには、「あなた、アラビア語話せるのね」と言われたり、面白いらしくニヤリとされたり。また、希なケースには「君はモロッコ人なのかい?」と、そりゃ流石にないだろ…。フスハーアラビア語の先生をしているというお母さんは「どうやってどれくらい勉強したのか?私は●●にすんでるから、いつでもアラビア語教えてあげるわ」と、たぶんこちらの人だから本当に遊びに行ってもウェルカムしてくれるだろうが、説明がざっくり過ぎて、家が全くわからない。

確かに仕草とか、ボディーランゲージとか、ずいぶんとモロッコ人化してきた。

 

職場の同僚にも、「あんたアラビア語上手だ」とか、久しぶりに会った人には「そんなに話せるようになったの」とか。

始めの頃、「君は、アラビア語喋れないのね」と、私を蔑んだ目で見ていた女子たち(たぶん、同世代なのに童顔で年下に見られていた)にも、いつからかどうしてだか知らないが「君はいい子だ」と言ってくれるようになった。そして、私が彼女にアラビア語で聞くと、一生懸命考えながら単語を並べてフランス語で返事をしてくれるということもある。恐らく、職場への感謝の手紙も好印象だったよう。

 

また、アラビア語を多少理解している私にたいし、私の前で下手なことは言えないという多少の警戒感も出てきたらしい。これは内緒にしとくんだよ‼と全く理解できなかった話について釘をさされたりする。また、私も逃げるために何度となくお世話になってきた常套句「わからない」という言い訳もしづらくなってきた。本当にわからないから、「わからない」と言っているのに、「何を言ってるんだわからないわけないだろ‼」と怒られるのには非常に困る。どうしたらいいのだろうかと天を仰ぐしかない。

 

フランス語のリスニングUPのために、職場の人たちには「フランス語が一番わかる、次に英語だ」と言っていたが、次第に英語の方がコイツわかるのでは?と、バレつつある。

英語が話せる人たちは、話せることを誇示したいらしく、わざわざ私に英語で話しかけてくる。英語の内容はわかっても、すぐに出てくるのがフランス語かアラビア語となってしまい、英語はとても考えながら単語をゆっくりと並べないと話せない…たまにフランス語と英語も混ざる。

その上、今日は、ベルベル語を話せる子から「ベルベル覚えてる?おはようは?」と、前回習った言葉の復習も入った。

 

そして、現在、全てぐちゃぐちゃ。

何ひとつパーフェクトに話せない。

他の隊員の中には、語学力UPが協力隊の大きな目的としてモロッコに来ている人もいるそうだ。どうしてモロッコを選んだのだろうか…他の仏語圏の方がいいと思うのに…モロッコに憧れて派遣された人がモロッコには多いから、他の国の隊員と違って、より都会的なことを求めたり、自分のための活動である人や、観光したがったりする人が非常に多い。希望してきた人に限って、文句が多い。色々思うところがある。

 

 

ロッコ隊員が言語がぐちゃぐちゃになってしまうのは、多くあるとと知っていたが、やっぱり仕方ないと思う。ここはそういう国である。このぐちゃぐちゃ感もモロッコらしいと言えばすごくモロッコらしい。私は、活動のためにアラビア語を頑張るし、自分のためにフランス語を頑張る。日本人の中にはここのアラビア語はモロッコしか使えないからと嘆いている人もいる。

 

近いうちに教授や看護長と活動方針を話し合うに辺り、最近行方不明になっているフランス語を連れ戻さないかん。会話に取り残されて、看護長の陰謀に巻き込まれないためにも。

 

アラビア語の音がとても美しくて、私はムスリムではないけど、コーランアラビア語は、聞いているだけでも癒される。お経みたいな感覚なのかと思う。

 

 ここでは全てはアッラーが決める。

私のフランス語もアラビア語も私の努力次第。それは、私が決める。

 

続く。

時間をくれ‼

活動計画を立てる時間がほしい。自分のパソコンを使って、家でやりたいと言ったら、看護長から「勤務が終わってからの16時以降にやればいいじゃん。16時以降なにしてんのよ?どうして、あなたはフランス語も英語もアラビア語も話せないし‥全く、どうしてくれんだ」と言われた…どこまでブラック病院なのか。

言語道断だ、私は仕事は職場で終わらせるスタンスなんだ。16時以降は私の時間だ、息抜きをさせてくれ、じゃないと2年もない。日本でも勉強会やセミナーや論文作成とかは時間外でやるし、病院に残って勉強したりしたことはあるが、主体的にやるもので強要されるべきでない。

もしも、現場にいる看護師が100%全力で仕事しているなら私もそれくらい頑張りたいと思うが、看護師は私に仕事を押し付けてサボっていることが多い。

その上、こんなことを言う看護長。

私がいつもニコニコしてるからって、なめやがって‼私が全てを伝えてるわけじゃないと言うことを知らないから仕方ないのかもしれない。いつもへらへらしてるように見せかけてるけど、めちゃくちゃ色々考えて上手く立ち回るように努めてるも知らない。しゃべれんけなめんのいい加減にせいや‼(ふと、研修所で酔っぱらって暴れてる同じ班の男の子が危なすぎて怒ったら、怖がられたのを思い出した。)

非常に頭にきたが感情で対応しても仕方ないので、最後の手段に出る。絶対に一撃で効くと知りながら今までずっと使わなかった。脅してるみたいで本当はこんなこと言いたくない。

冷静に「もういいわ。別に私はいつでも日本に帰れるの。もしあなたが望むなら、私はいつでもここを辞めるわ。他の病院からもおいでって言われてるし。」と言うと、看護長「ちょっと待って待って、わかったわ、時間をあげるわよ。どれくらい何日ほしいの?」と。

こんなことしないと受け入れない、そういうレベルなんだと改めて痛感。なんて幼稚なんだ看護長。しっかりしてくれ、私はあなたをリスペクトしたいんだ。

 

そんな午後を先日過ごし、今朝、教授に「先週看護長とも相談して計画を立てたいので、今週の午後の時間帰宅してプランの準備をしたい。」と言うとあっけないほどすぐ、「勿論よ、やりなさい。作ったら私に見せてね。看護長たちと話し合いましょう。全く問題ないわ。」と言ってくれた。感謝、そういってもらえると、ちゃんと午後も計画立てたり、プレゼン作ったり頑張ろうと思えるのに、どうして看護長はそういうことができないのか…仕方ないのだろう。たぶん、それができないから途上国なんだろう。

教授は、先進国に留学した経験もあるから先進国での道徳観も仕事の捉えかたなども良く知っている。彼女は多忙であんまり彼女と直に話せる時間は少ないが、いつもにこやかに話してくれる。できれば教授と直でやり取りしたいんだが、看護長は先に話を聞いていないと「私きいてない」とご立腹するし、たいてい何かを看護長に言うとそこで私の話は否定されてストップ。看護長がご立腹するのも教授はわかってるから、先に看護長に話を通せと徹底する。そして結果的には何も進まない。そして、私のストレスは溜まっていく。

この負のスパイラルは協力隊あるある。

 

特にここの看護師は、みんな自分のことしか考えていない。自分の身を、自分のラクを、あんじて仕事をしている。とりあえず、私は自分が好きな直接母乳の介助や家族との会話を楽しんで家族と関係をつくり、楽しく仕事をしている。やる気のある女医たちには何かできるかもしれない。何を求めているのかゆっくりリサーチしてみたい。

 

プランを立てるにあたり、これは私のための物でなく、あなたたちがこの病院のためなんだ。みんなでやるんだ‼、と伝えた上で、マズロー欲求階層説を説明し、だから、こういう順番でやらないかんけ、と伝えてみようと思うが…どうだろう波乱かもしれない。見栄っ張りなモロッカンのことだから、もっと大きなことをやれとか、最先端の日本のケアを教えろとか言い出すのが眼に浮かぶ。志が高いのは素晴らしい、でも今は、そこではないというためにマズローに助けてもらう。

 こちらにきてから、看護学校で習ったことや新人時代に先輩に叩き込んでもらったことをとても思い起こすことが多い。とても大事なことを学んだんだとこちらにきてから、気づくことが多い。

沢山の、日本にはあってモロッコにはないもの。 やっぱり教育が人間をつくる。

 

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ロッコの観光雑誌とかにも載せられそうな写真がとれたと自己満足している一枚。

 

続く。

chellah遺跡の写真たち

先日chellah遺跡の写真。一眼レフの写真が重すぎて時間がかかりましたが、きれいな景色だったので、紹介させてください。

 

 

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ローマ時代の建築物が時を経て、今も残されていて、その経過した時間の長さと重みを遺跡の端々から感じ取れます。

 

イスラム教が入る前のモロッコ人の祖先たちがどのようなことを想い、生活をしていたのだろうと想像をふくらませてみますが、ムスリムでない彼らのことが私にはどうしても想像できません。イスラム圏でなかったときが想像できないくらい、この国にはイスラム教が生活の隅々に溢れている。

 

改めて信仰の影響力の大きさを実感する。

イスラム教が入ってきても、多神教の遺跡を壊すことなくそのままにしておいたモロッコ人にとても好感が持てたし、そこはなかなかモロッコ人らしいし、ムスリムらしい。

 

続く。