凄惨な一日。

ご無沙汰しています。

 

私はとても元気なのですが、このブログを書く意味がいまいちわからなくなり、また、日本語をタイピングしてるとフランス語やアラビア語がそのぶん抜けていく気もして、しばらく休憩していました。

 

先日、

緊急入院で搬送されてきた子がしばらくほったらかしにされており、流石に黙ってられず、近くで携帯をいじっていた医者に「早く入院受けをしてくれ」と言うと、

医者は「私は担当じゃないから違う、担当は今出て行った」と言った。

私が「医者の仕事は病人をケアすることだから、担当じゃなくても目の前に病人がいたら仕事しろ」と怒り、(しかも私はたまたまその一件の前に、担当の医者が携帯をいじっていた医者に、『私忙しいから手伝って』、とお願いしひと悶着起こしていたのをみていた)等もろもろ伝えると医者は病棟から出て行こうとする。

近くに他の医者はおらず、その人が対応するしかないがにっちもさっちもいかない。

 

職場のモロッコ人たちの判断は、ブチギレル私が悪者だと。

看護長や教授と話すが、全く私の話を聞いてはもらえず、モロッコ人からの言い分しか聞かない。もうここは終わりだとやっと納得し、潔く一年半務めた小児病院を辞めた。そして、近くの産科病院に異動した。こちらがどんなに頑張っても向こうが向こうでは仕方ない。正直、残念だとも思わない最後であった。

 

 

※※これから先、日本で暮らす人々にとっては、ずいぶんと凄惨なエピソードの記載があります。※※

医療者でない方、妊娠中の方などは閲覧しないことを勧めます。

 

 

 

 

新しく移動した産科病院はこじんまりとした病院で、日本に研修に行った幹部クラスのスタッフが数名いて、好意的に受け入れてくれる。私に会うと毎回「おはようございます」と言ってくるスタッフまでいて、前院とのギャップに戸惑うばかりであった。

 

ラベリングこそされていないものの棚は整頓され(ラベリングしなくても本人たちの中でこれはこことわかってるよう)、使用前後にカートはまっさらな状態にされ、カルテも番号順に並べ、お互いにカルテの記載漏れなどを指摘しあう職場。看護長はみなから信頼され、スタッフも看護長のことをファーストネームで呼ばれていた。一言でいえば雰囲気のいい、人間関係の良い職場。近くの病院だが、こんなにちがうのかといい意味で驚くことが多かった。

 

私は毎日、褥婦さんたちと話しながら赤ちゃんの様子をみて周り、授乳のお手伝いをしたりして過ごしている。スタッフへはあまりこちらからこうした方がいいとかこうやってとか指図してアプローチしても変わらないので、私の態度で示すようにしている。

 

よく貧血で褥婦さんが倒れたり、なぜか面会に来たお父さんが低血糖で倒れたり(朝食を食べずに面会に来たと)、モロッコでは日常茶飯事。

日本人から見たら大体オーバーなリアクション。だから、ちょっとやそっとの人の叫び声をきいても、また喧嘩でもしてるか何かあったのかなと思う程度。

 

ある日、その叫び声が聞こえたとき、

またこれで野次馬しても仕方ないとそのまま授乳のお手伝いをしていた。分娩後の初授乳ながら赤ちゃんもなかなかガッツのある子で、母乳分泌はまだわずかだが上手におっぱいを飲めていた。授乳の手伝いを終えて、病室の廊下を歩いていると。

 

清掃員の女の子が、「こーきー(私)!!」と、酸素の濃度の悪そうな真っ黒になった赤ちゃんをかかえて病室からダッシュしてくる。

さっきの叫び声はこれだったのかと反省し、すぐ椅子に寝かせて、末梢も冷たくぐったり、息もない脈もない。心臓マッサージしていると「分娩室に酸素があるからつれてけ~」と言われ赤ちゃんを連れて行く。

 

いままで君は入っちゃダメと言われていた分娩室に初めて入ると、酸素もインファントウォーマーも整っていた、酸素マスクもちゃんと酸素ボンベについていた。分娩室の看護師が酸素マスクを与え、心臓マッサージ続行。聴診器をもってきて、聴診すると心音、呼吸音ともに良好。徐々に体の酸素濃度が回復し顔色にピンクが戻る。モニターはないのかと聞くがさすがにモニターはないそう。ひとまず安心。

急を知った医者たちがごっそりと訪れ、やれ点滴だチューブだと言い出したので、あとは医者に任せて、お母さんの元に「もどったよ」と言いに行く。

 

すると、泣き叫ぶ母たちが複数名、これじゃみんなパニックで誰の子なのかわからない。あの子は誰の子か?と叫ぶと、あの子は私の子と申し出てくる。

 

同じ病室で赤ちゃんが急変したから産後の母たちには非常にショッキング。

分娩室に戻るとスタッフから、「この子はワクチンで具合悪くなった」と聞いた。さっきまで真っ黒だった子は医者たちに気管内挿管され末梢点滴もトライ中、顔色も良好。なんとかなりそうだと思った。

 

もう一度病室に戻り、母に大丈夫だ回復したからと伝えに行く。それにしても、他の母たちも明らかに様子がおかしい。まるでわが子が瀕死になったかのような取り乱しようにみえる。同じ病室の子どもが急変したのを目の当たりにしてショックを受けているにしてはちょっと度がすぎる。

よくみると8人ベッドのうち5ベッドの赤ちゃんがいない。赤ちゃんどこ行ったの?と聞くが知らないという。私はようやくただごとでないことにきづいた。よくよく母たちに聞くと「注射していなくなった」と言い泣き叫んでいる。

分娩室のスタッフに母たちに説明してくれとお願いする。分娩室のスタッフはすぐ来てくれた。

そして、「みんな、話をちゃんときいてくれ。今子どもたちは私たちが治療している、どうか私の神があなたを助けることを祈ってる。だから話をちゃんと聞いてくれ。どうか神に祈って待っててほしい。子どもたちは今ケアしている。神が望むまで待っててほしい。私の神があなたを助けることを祈ってる、どうか祈っていてほしい。」と説明。ここにいない赤ちゃんもみんな急変してることを知る。

説明後、更にパニックで泣き崩れる母たち、ただでさえ産褥期でホルモンバランス崩れてるのに、もうこの世の終わりの有様。

母たちだけでは危ないので、部屋で母たちをなだめ、涙を拭わせ、水を飲ませ、息を整えさせ、神が望むことを祈ろうと伝える。母同志で、あんたしっかりしなさいとお互いを鼓舞して支え合う。「今日退院で家に帰れると思って、私はとても幸せだったのに、どうしてくれるんだと」と叫ぶ声をきき、心が張り裂ける思いだった。

 

同僚に、どうしてこんなことになったの?他の赤ちゃんはどこにいるの?と聞くと、「実は確認しないで注射して薬が違ったらしい、それで具合悪くなった、まだ誰にも言うなよ。他の子は他の分娩室でみている」と。

このときようやく状況が読めた。

恐らく、退院前の予防注射で違う薬を順番に投与し、次々と赤ちゃんが急変した。先に具合の悪くなった双胎1組を含む5人の赤ちゃんは既に他のフロアに運ばれ、私は最後に具合の悪くなった子を蘇生したのだった。

 

そのうち、スタッフが名前のバンドが本人と違っていてどの子が誰の子だかわからず、着ていた服を確認する始末。このころには、まだ家族には言うなとくぎを刺されつつも、同僚から一人の赤ちゃんが既に亡くなったと聞いた。

だぶん、誰の子がなくなった子だったのか確認したかったのだと思われる。特に具合の悪い数人は小児病院に搬送されたと聞いた。頼むからせめて今日だけは入院受けを迅速に対応してくれと私は願った。

 

そんなこんなしているうちに家族面会の時間となり、いつものように祖母、父などが病棟に流れ込んできた。

赤ちゃんがいなくなった母たちは面会者に話し、家族も怒り泣き崩れ、更にひどい状況に。父の一人は暴れまわり、他の父たちに取り押さえられ、「お前しっかりしろ、うちの子だって具合悪いんだ、暴れたって仕方ないだろ、話を聞け~」と怒鳴り合いながら取り押さえる。それでもまだ暴れて怒っている。警察も病棟まで入ってきた。家族は怒り狂い、看護長室、医師長室、分娩室へ怒鳴り込む。私は家族たちの行動は無理もないと思った、彼らの立場に立てば当然だと思った。

 

 

しばらくして、子どもの状態を報告するからと一か所に家族たちが集められた。

 

この時点で6人の赤ちゃんのうち2名がなくなっていた。その報告の仕方もなかなかモロッコらしかった。

「今から名前を呼びます、呼ばれる方の赤ちゃんは生きてます。今から名前を呼びます、呼ばれる方の赤ちゃんは生きてます。○○、△△、■■、○△、もう一度言います、○○、△△、■■、○△、全員の家族が面会出来ますので順番に入ってください」と。

 

名前を呼ばれなかった家族は泣き崩れ暴れる。警備員と警察が暴れだした彼らを抱え込むが、けられたドアが一つ壊れた。その後、みな赤ちゃんに面会し、亡くなった赤ちゃんの父たちは泣き崩れ暴れまわり立ち上がることもできず、それでも周りの人に引きずられながらどこかへ連れていかれた。

 

当たり前だが、子どもの誕生は親にとって一生忘れることのない幸せな瞬間であり、しかも生後3日4日たち、日々わが子への愛情は強くなっていく。今日やっと退院、家での生活を楽しみにしてた家族たちは、たった注射一本でわが子の命を奪われたのだ。こんな、こんな、こんな、酷い話はない。

 

翌日、職場へ行くと具合の悪くなった赤ちゃんとその母はみな小児病院とそこに併設された産科病院に移動したこと聞いた。そして、その後さらに一人亡くなり、6名中3名の赤ちゃんが亡くなったこと、間違えて投与された薬が循環器系の薬であったことを聞いた。

 

私は、これだけの惨劇でも、ここの病院はまだちゃんとしているという印象があった。

急変してから迅速に対応していたし、家族に正しい情報を説明した。説明の仕方が多少残酷だとしても。

もしも前院であったら間違いなく事故でなく、お子さんの具合が急に悪くなってもうどうしようもなかったなどと説明し、情報を隠ぺいしたと思う。

今まで前院で、ケアの仕方が悪くて赤ちゃんの具合が悪くなったと思うこと、例えば、「あなたの心臓マッサージ、気管内挿管、マスクバックの仕方が悪いからこの子が死んだんだ!」と思うことは沢山あった。

でも、今回は明らかに自分たちが悪いことをしたせいで子どもが亡くなってしまったとモロッコ人が自覚している。どうしてこうなったのか、どこでどうやって薬をだしたかなどを彼らはずっと話していた。そして、最後に注射した本人のこと責めたてる人はいなかった。ちゃんと見て確認しなかったのがいけなかった、悪いのは彼女だけじゃない、たまたま彼女だったと同僚たちは言っていた。たぶん、自分だって…もし今日注射してたら…と思うのだろう。

 

どんなに悔やんでも、どんなに怒りがあっても、もう亡くなった子どもはかえってこない。

事件の30分前には、「おっぱい出てる?飲ませられてる?帝王切開の傷はどう?良く寝てるね。かわいいね」と話しながら抱っこしていた子たちが一瞬で亡くなった。

 

 

これだけ凄惨な事故が起こっても、まだここは病院の質を改善する力のある場所だと思うから、みんなが這い上がれるようにここでやるしかない。

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それでもまた陽は昇る。

 

 

つづく。

日本は桜が満開だそうです。

ここには桜はないけれど、プラムの花はなかなか桜に似ている。

 

花を愛でることはできるけれども、ここでは花の木の下でレジャーシートと希望を広げて、酒を酌み交わすということはさすがに出来ず…

結局、花を見てるのではなく、その下でお酒を飲んで春を楽しむ時間が大好きなだけなのだと知っているのだが…

 

離れて知る、意外と自分は納豆やキムチなどの発酵食材や根菜が好きであったり、外でお酒を飲めるのがこんなにも贅沢なんだと気づく。

お酒を飲みかわすことがコミュニケーションの一部なんだよと伝えるとモロッコ人には相変わらず「えー」って顔されるが。

 

 

もしも夢がかなうなら、3時間でもいい、どこでもドアで日本に帰って、桜の木の下で仲間と一緒にお酒を飲みたい。

 

今世界中で奮闘する仲間たちと一年後桜の木の下で再会してお酒が飲めることを願って。

 

 

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携帯電話の画質はやっぱり悪くて不服だが、それもご愛嬌ということで。

 

続く。

第一弾、カルチャーショック編終了のお知らせ。

 

こちらに来てすぐの時は、毎日が発見の連続で、記事にまとめきれないほどの発見と学びでいっぱいで、きっと赤ちゃんもこれくらいの情報量に埋もれながら育つのかなとか考えたりもしたが…

今はもうカルチャーショック編はひとまず終わりの予感。

 

そう、もう1年経とうとしている。

気が付けば非日常であったモロッコでの生活が完全に日常と化した。

結局、3か月で、命つなぐのに耐えられるようになった。

6か月で、職場に居るのに慣れた。

9か月で、職場で仕事するのに慣れた。

12か月で、自分の場所になった。

という感じ。

 

あと一年はモロッコに残留の権利あり。

ここからようやく自分の本領発揮ができるかこのまま無力感のみをモロッコに残して立ち去るのか。アッラーに委ねるしかない(私にとっては自己努力した上で流れをゆだねるの意)。

 

訓練所で担当でお世話になった方が私に向けてどうかここに気を付けてくれと言って下さったこと。

「いつも人のことばかり優先するから、モロッコに行ったら自分のことを大事にして頑張り過ぎないことはじめは、5割とか8割くらいの力で。」

「看護師さんは真面目に初めから頑張り過ぎて一年でつぶれて帰ってくる人多いから、始めの1年は何もしなくていい2年目から活動って考えていいと思う。焦って現地の人と衝突しないように」

 

一つ目は痛いほどよくわかった。外国は慣れるまで生きてるだけで死にそう (笑)。慣れるまで、思った以上に自分に過保護にしないと後々にひびいてしんどい。

二つ目は、マイペースな性格がよかったのか、まだ自分から大きなアプローチはかけておらず、本人たちも気づいていないレベルで介入してこっそり私が実験しているレベル。色々な反応をみながら、来年に生かしてみたい。

 

第二弾(二年目)は、どんなタイトルがいいか。それを考えるよりもやらなくてはいけないことが沢山ある。まずはやってみてから。

 

 

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続く。

集合写真

実際の私を知っている人は、私が写真が好きなことを良く知っているであろう。

しかし、モロッコで一眼レフを日々持ち歩いていたら多分もう手元に一眼はないであろうし…カメラをうまく隠せる服装にするように気を付けたり、カバンを持ち歩かなくてはならなかったり(最近、貴重品はすべて服の中に収納しているので、仕事以外は手ぶらでの行動が多い。)面倒なこともある。折角美しい景色があるのに、全部写真にとりたいけど、護衛を付けないといけない気がする。旅で一眼で撮りまくってる人たちは色々工夫してるんだろうか…調べてみよう。

 

先日撮影された、モロッコ人と日本人が一緒のフレームに収まる集合写真(ラフなもの)を見返していた。

ロッコ人は、最前列寝転がる感じ、その後ろは座る、後列は立っている、最後列は、イスかテーブルかなんかに乗っている人が数名。

日本人は、最前列は座る、その後ろは中腰、後列は立っていて、しかも前後で顔が重ならないように前後で顔をずらしながら出している。

 

中腰。それは、子どもの頃集合写真で、「真ん中の人は中腰になってください~」と言われた、あの中腰。

中腰、私は嫌いです。足がプルプルして集合写真撮るだけで筋肉痛になりそうなので。あのしんどいポーズをしながら、決め顔しなくてはならない日本。なんて過酷なんだ。

 

ロッコ人は、座っている人から立っている人までの間が空いているがマシモシュキ(気にしない)。

ここで驚いたのは、どうして日本人はそんなしんどいポーズをとってまで人を密集させて写真を撮るんだろう。中腰なんてしんどいことせんでいいのにな…と、どちらかというとモロッコ人目線での日本人への突っ込みどころに気づいた。

 

日本祭りのイベントを手伝っているとき「モロッコだから本当の開始は8時だけど実際は開始は9時過ぎるから(どーのこーの)」と他の日本人にむけて日本語で話していたら、日本語のわかるモロッコ人にとても笑われた。図星なので面白いんだろう。もう体の半分はモロッコ人で残りの半分は日本人なのというと、みんな喜んでくれる。

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年明け体調崩して回復後すぐに向かったとある町。得意のセルフタイマーで。3泊したが2日もここの堤防に夕日を見に行った。夕方の海が好き。

 

続く。

 

祖父

少し前に祖父が亡くなった。

 

随分前から体調が悪く入退院を繰り返していたので、私が出発する前に彼にいってくるとあいさつしたとき、心の中ではたぶんもう会えないかもしれない、と思っていた。いつも通り、玄関でバイバイして握手して、祖母だけが家の外まで出てきて見送ってくれた。

 

私は幸いなことに、日本で働いていた7年程度の間、自分の勤務中に人を看取ったことがなかった。(ERで顔なじみの子がなくなって会いに行ったり、他の病棟で担当していた子が亡くなって会いに行ったことはあった)

そして、近親者の死を体験したこともなく、祖父母4人そろって健在だった。

 

そのため、私にとって初めて肉親を亡くす体験。

生きる死ぬに携わる仕事をしているし、死について、サラリーマンやOLよりは考えることも多かったのだろうが、やはりそれは仕事であったんだということを痛感した。

今までの死はいつもどこか他人事であったことがわかった。

 

ロッコに来てからも沢山の赤ちゃんを看取った。撫でている頭が手が足が少しずつ冷たくなって、皮膚の色が変わっていった。

その子たちの死と自分の祖父の死の重みは同じであるようで、同じでなかった。でも、同じだと仕事できない。でも、違うとは断じて言えない。

 

子どもの頃、近所一のガキ大将。中学を出て、布団屋さんで住込みで仕事した。途中からやはり勉強して高校に行きたいと、仕事しながら夜間中学へ入学し、卒業。仕事場で祖母と出会って、よく二人で山登りしたそう。

布団づくりひとすじで、子どもたちを育てあげ、長男ということもあり、両親の介護も祖母と一緒に長年にわたりおこなった。

子育てと介護から手が離れると、今度は、老人大学へ入学し、仲間と一緒にスポーツして身体を動かしていた。いつも楽しそうに話をしてくれていた。

昭和の気難しい人で本当に忍耐強く努力する人であった。いろんなことに耳を澄ませて、なにごとも興味をもって勉強して、何か会を開くとなると、どうしてもマイクを握らされてしまう、仕切り屋さん。

 

最後に会えなかったし、葬式にも出れなかったけど、悔いはない。

「好きなことできるうちに好きなことをしなさい。○○(私)さんが幸せなら、俺たちもしあわせだからさぁ。」といってくれた。きっとおいどうして葬式に帰ってこなかったんだって怒らないだろう。

私なりにモロッコから別れをして、気持ちの整理もした。

 

人の人生なんてなんて短いんだろう、あっという間に時間は過ぎてしまう。きっと自分が幸せだからこんなにもあっという間と思ってしまうのだろう。ありがたいこと。

自分の親もいつか死ぬし、自分も自分の大切な人たちも、みな平等にいつか死ぬ。

でも、いつかはわからない。

 

続く。

停滞期と個人依頼

休養したので心機一転、初心にかえって元の病院で働き出そうかと考えているが、同じように働き始めても今までと同じになってしまうので、作戦をたてた上で復帰しようともくろんでいるところ。早く仕事したい。

  

一月後半から2月にかけてモロッコを離れた期間があった。離れることへの戸惑いや少々の罪悪感もあったが、それはそれで新たな発見があり、結果的には離れてみて良かったと思えた。

人によっては任期の二年間、任国から離れないという人もいる。それはそれで立派なことだと思う。でも、離れる理由があるなら、それを自分なりに良い部分をとらえることで自分にプラスにしたいと思う。

少し抜けたアラビア語と元々崩壊しているフランス語に関して、今から本腰を入れて何とかしないと、あと1年しかないという焦りもあるが、焦っても仕方ないのでマイペースにやっていくこととする。

 

職場に行っていないにしても、たまたま偶然が重なったのだと思うが、ここ最近我が家に訪れる人たちにやたら医療の仕事を頼まれる。

 

一つ目は、不動産屋の人で家賃払いの領収証を書いてもらいに来ているとき。

親戚の子どもが病気で△病院でみれないから■病院にみてもらうよう紹介状をもらったんだ。どうか、コーキ(私の名)の顔で小児科医につないでくれ、と。

 

この話の背景には、■病院は国内有数の専門病院で全国から患者が集まってくる。そのため一般的に紹介状をもらっても、医者との問診の約束がとれるのが、3~6か月後。だから、私が誰か医者と話を通せばすぐに診てもらえるかもしれないという期待がある。

詳しくわからなかったので何とも言えないが、話を聞くとそこまで悠長に待っていられない状況かもしれない。しかし、医者の診察を3~6か月待っている子はみな平等に速やかに診察されるべきなのである、本来であれば。誰も僕私は「後でいい」という子はいない。聞いてすぐの段階では、一人だけ知り合いだからってその子を特別待遇させるのはいかんじゃろと思った。日本の感覚ではありえない。「自分の身内の子どもを今すぐ診て」とトリアージや待合室をすっ飛ばすなんて…と考えた。でも時間がたってくると本当にこれでいいのかと考え始めた。

たまたま自分のところに声がかかった人に肩入れするのは不平等、いや、どっちみちみんな困ってるんだから、せめて自分に声がかかった子どもだけでも助けてあげたほうがいいのか。

でも、今回の件ばかりはすぐに決められないし、何が正しいのか、自分がどうしたらいいのかわからない。

何のために来たのかといったらモロッコの子どもと家族たちの健康を軸にした生活が少しでもよりよいものになるためという明確な課題がある。

しかし、待っている誰かを更に待たせて、(あるいは犠牲にしてともいえる)自分の知り合いの家族の子どもをさきに受診させるべきなのか-。

 

 

二つ目には、家のドアがとんとんと叩く人がいる。誰かとみると上の階に住んでいるセレブのマダム。私が具合悪いから注射をしてほしいとのこと。

とにかく家に来てほしいというので、戸締りをして階段を上ると、家にはアンプル2種類と注射器と針と注射指示票の紙。これをお尻に打ってほしいと言われた。

ただ手書きの指示書と彼女の話すアラビア語が完全には理解できず、一回量はいくつなのかと聞いても明確な返事もなく…4日間注射するんだとは言っていたが。たぶん彼女はアンプル1本打たれる気なのだろう…大人のことはわすれつつあるが、確かに大体一回1アンプルで使用できるようになっていると思われるが、怖い。薬液の種類を辞書で調べるが出てこず…確認をしている最中もとりあえずいいから注射打って注射打ってとまくしたてるマダム…(人のことを待てなかったりまくしたてたりするのはモロッコでは普通のこと)。

家から自前の手袋と消毒液をもって感染対策をとったとしても…なんの薬かもわからないものを人にうつことはできない。

ごめん、わからなくてできない。家を後にした。

他の看護師にあたると言っていた。何もできなかったのに揚げたての揚げパンを一つくれた。申し訳ない。ありがとう。

 

 

バレンタインの朝、通りの道路に路駐されている車全てにプレゼント。風船とお店の割引の札が…注意力低めのモロッコ人絶対何台かタイヤの飾りに気づかずに発車して巻き込むんでないかと思うと、少し心配…。

こちらでは男女問わず、愛する人に花をプレゼントする習慣があるそうで、花屋は朝から忙しそうだった。私はやっぱりチョコをあげたい日本人。地球のだいたい裏側の日本で、勝負をかけて意中の男性にチョコレートをあげている女性たちがどれだけいるんだろうと勝手に思いをはせながら…

 

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つづく

わたしと9.11

色々とあり職場と揉めて愛想をつかし、「もう働かない」とたんかをきり、現在仕事放棄中。

 

職場に実際に戻る戻らないは、さておき、自分自身には一人でゆっくり考える時間がほしかった。頑張ればこのまま進むこともできるかもしれないけど、あとで後悔しそうな予感がしたので、自分が納得するまで時間をもらうことにした。


【最近の私】

その少し前から取りつかれたように、9.11のことが気になって、ひたすらインターネットで調べていました。インターネットでは(恐らく)いろんなあることないこと…書いてあり、どれを信じるかは自分の判断ですが、自分自身としては、どうして今こんなに私が9.11について知りたくなるのかということも疑問の一つでした。

 

いろんな考えの方がいると思うので、私の文章を読んで不快な思いをされる方がいたら、本当にすみません。でも、私はいろんな考えがあるからこそ、いろんな思いを持てるからこそ、世の中がカラフルになって、魅力が増していくのだと思います。だから、いろんな考えがあるのは(勿論、私と正反対のことをいう人がいたとしても)いいことだと思っております。

私としてもあまり政治的なことは書きたくないのですが、どうしても今回は書く必要がありました。ご了承ください。


 【わたしにとっての9.11】

 当時。私はまだ学生で、学校帰りに妹と一緒にリビングのテレビをつけてニュースを目の当たりにして事件を知りました。

「何だかアメリカで大変な事故があったらしい」「沢山人が死んでいるらしい」「ビルに飛行機が突っ込んだ」「ニュースキャスター(日本人)がとても動転している」という印象を受けた記憶が残っている。

幼き頃の私は今と変わらず、勉強ができるタイプでも世の中のことを知っているわけでもなく、のほほんと生きていたし、今も比較的のほほんとしていると自覚はある。

ただ、その事件をきっかけに私はイスラム教という宗教があるということを知った。皮肉なことに、私にとって9.11がイスラム教との出会いであった。

それから、ほどなくブッシュJr大統領はビンラディン容疑者をかくまっているとしてアフガニスタンを侵攻、その後の流れは、皆さんご存知と通りかと思います。様々な解釈があり、調べれば調べるほど、謎と闇が残る事件です。

9.11を通し、宗教とは、信仰とは、国とは、戦争とは…どうしてこんなこと起こりうるのだろうかと、子どもなりに私が考えるきっかけとなりました。少なくともその事件以降に自分の眼が外の世界に向いたのは間違いなかった。


思い返せば、JICAの面接のときに面接官に「モロッコはどうかしら?」と言われたときに、「どこでも行きます。行ったら行ったで何とかなるだろうし、イスラム圏も興味はあります。日本ではあまりメディアにいいように取り上げられていない印象があるけど(すべてを把握していないのでそれも私の主観でしかないのだが)、でも、だからこそその中に入ってみて知りたい…」というような主旨を言った記憶がある。


【なぜ今9.11なのか】

自分でもどうしていきなり9.11が気になり始めたのかわからず不思議に思うこともあった…

でも、今回私がとりつかれたように9.11を調べ始めたのには、やはり、トランプ大統領イスラエルの大使館移設発言。その発言によるムスリムであるモロッコ人たちの反応を生活の中で見たことが大きいと思う。駅前では人々がデモをしていたし(いつも人があふれる土日の夕方、近所から人が消え、男性たちはおそらくほとんど駅前あたりに集まっていたのではないかと思われる・・・デモに近づくでない、気を付けよ‼とお達しが来たため、私は自宅で過ごしていた)、抗議的な内容をSNSなどに載せている知人も幾人かいた。日本ではみない光景であった。


私はもともとイスラム教やユダヤ教を含む中東について深く知りたいと思っていたため、モロッコに来てまもなくからイスラエルパレスチナをめぐる問題をあつかった本を色々な角度から読み漁り、結果的に、知れば知るほど無力感に襲われるというその名の如く絶望に陥った。ここに足を入れたら帰ってこれなくなる…そして、私の頭の中でさえも手に負えないと思い、しばらくそのへんの文献からは距離をとり、自己防衛した。しかし、今回のトランプ大統領の一件で、やはりアメリカが気になる。そして、9.11が気になり、結果的にひたすら事件について調べていた。

 

この頃、9.11が気になって仕方ないんだと、日本人と話していたら、池澤夏樹著の「新世界へようこそ」に9.11のことが詳しく書いてあるから読んでみたらといわれた。9.11以降に池澤氏がメールマガジンとして配信していたものとその内容に対する読者の返信やそれに対する意見などや、参考文献なども多くある読み応えのある文献であった。はじめは9.11のショックから始まり、なぜこのような攻撃が行われたのか、なぜアメリカはこのような態度に出るにか、他国との関連、戦争とは、アフガニスタンパレスチナ問題、イスラム教、

勿論私は、池澤氏の意見に賛同する部分もあれば賛同しきれない部分もあったが、自分の中でつっかえていたものは取れた。

自分がモロッコに来て9か月、ずっとモロッコ内で「やい中国人!」だの「きみムスリムでないの?(驚愕にちかい)」だの色々と言われたり、「別に中国も日本も同じ顔してるし一緒でいいじゃないか」などと一緒に働く同僚にすら言われたり…そういう中で少しずつ溜まっていく鬱積のようなもの。

でもそれは、自分が日本を出て少数派になって初めて知ったこと。

池澤氏の本の中からも読み取り自分のつっかえていたものとして「自分と異なるものに興味を持ち、知り、その違いを尊重するとこと」それは私がモロッコに来てからずっとそれだけは大事にしようと思っていることそのものだったし、ここにも以前書いたこともあった。とても大事だと理解している。でも、現実には職場のスタッフと喧嘩し、現在、仕事放棄中の身なので何も言えないのだが…現実は厳しく苦しいものである…

病院の中の数十人のスタッフと1人の外国人でさえこんなにも難しい。共通の認識や同じ方向を向いていくことが、こんなにも難しい。(職場の受け入れ状況などにもよるのだと思うのだが)

それが、何百人、何千人、何万人…国や地域という単位になったとき、それは非常に非常に難しくなることが身をもって理解することが出来た。ある意味では、私が9.11の疑問の答えがモロッコにあった。

 

結局一人では根本の根っこまで掴む方法も知らないし、力もないし、できることは限られる。

でも初めから何もできないとわかったうえで日本を出てきたんだから、できないなりになんとかしないといけないと思い、さて、どうしたものか。

 

新年一発目から実におもーい話であった…



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年末最後の夕陽。

毎日、ここの夕陽は私を癒してくれる…しかし、最近雨が多く見れないことも多い。


続く。