痒さと戦うか、病院に行くか…難渋

蕁麻疹が長期化し、さすがに怖くなり、泣く泣くクリニックへ行くことにした。

たぶん、もうステロイドしかない…

クリニックで「1週間前に魚を沢山食べた、種類は沢山。その夜から蕁麻疹が出て痒くなった、内服は特にしていない(抗ヒスタミン薬を1回飲んだが効かなかった…)」

というと、案の定、どうして1週間もほっておいたのだとブチぎれられた。なんの魚と食べたんだと聞かれても魚の名前までは勉強していなかった。事前に受診前に調べておくべきだったと反省。イワシ、タコ、イカ、ブリ系、その他沢山、フランス語でも英語でも勿論アラビア語でも知らない…パーティで沢山の魚介を食べたのだと伝えた。

そして、医者はいそいそと薬局へ電話し何かの薬を請求している。

私は不安になり、なんの薬を使うのか教えてほしいと聞くと「治療が終わったら、事務所に電話してレポートしとくから。あんたは喋れないだろ、注射する。」と言う。

終わってからでは遅いではないか‼と私の心の声。

「薬の名前を教えてほしい‼」というと、「あんたの主治医は私で、事務所から権利を得ている。文句あるか~‼」とのこと。

仕方ないので、バイヤル(注射の薬の入った瓶)を横取りしてみると、日本で自分も使ったことのあるステロイド

私の今の体重も知らないで、どんだけぶち込むつもりなのか…モロッコ基準よりも私だいぶ軽いぜぇ?…モニターもつけない(簡易SpO2モニターを自分につけようとしたら、却下された)…ますますわかってないではないか、怖い、私元々徐脈傾向なんだけど…たぶんすごい勢いでステロイドを静脈注射するのだろう…恐ろしい。

 

とりあえず、私の体重でこれ2個使うのは大丈夫なの?と聞いてみると、ひらめいたのか、体重を計ることになった。

すると、「あんたこんなにかるんじゃ注射できない。経口内服にしよう。でも、注射で一発と経口で少しずつ、どっちがいい?」と聞かれる。

すぐさま、「内服‼」と返答。

ステロイド剤、抗アレルギー薬、胃薬を処方されて、一応採血もするように指示を受ける。恐ろしかった。蕁麻疹が治らないのも怖かったけど、病院の受診も怖い。

物があるのに人間が追い付いていないモロッコ

 

 

先日、たまたま近所で日本人の仲間とソフトボールをしていたら、ライトフライの捕球時に眼鏡をかけたモロッコ人の顔面にボールが直撃してケガする現場に出くわすという事件もあった。

頭を打ったので、本当は頭の検査をした方が安心であるが、モロッコでその検査をできる場所があるのだろうか。そしてわざわざやったとしても、その検査がきれいにできているとも限らない。

その事件の帰りに、モロッコ人の方も、「モロッコの病院に行っても別に安心できるわけでない。みんなもっと良くなってほしいと思っているけど、現場は変わらない。私立の病院もいいとも限らない、お金を稼ぐことばかり考えている。前の保健省よりはましになったけど。」と言っていた。

 

市民たちが今の医療に満足していないのをスタッフだってわかってる。医療の質を変えようぜ‼というパッションを持っている人もいるけれども、なかなかその情熱が一部の人だけに限局してしまい飛び火してくれない。質の高いケアをする人はその人だけで周りは周り。

 

痒くて受診して仕事できないなんて、何してるんだか、私。

とりあえず、自分の健康。その次がモロッコの人たちの健康。

 

一人で全部はできないけど、何もしないよりはましだろうし、現状に真摯に向き合い続けて自分にできることを。

 

続く。

式典と祭りとおもてなし精神

ロッコでこの事業がはじまって今年で50周年だそう。

今まで先輩たちが頑張ってきてくださったおかげでなんとか私も今ここにいられている。感謝。

式典があるということで、ボランティアも何か出し物をしてほしいという依頼が入り、有志でソーラン節を踊ることになった。約1週間前から練習開始。YOUTUBEの練習動画を参考に10名程度で練習した。動画を見たときから危機感を持っていたが、ソーラン節は態勢を低くした動きが多く、足腰への負担が大きい。運動不足の私。

案の定、練習開始2日目、3日目には筋肉痛のピークがやってきて、みんな階段を上るにも手すりに寄りかかりながら、ヨタヨタと昇り降り…。そのうち筋肉痛は消退し、太ももは一回りたくましく成長した。

初めは、フリを覚えるだけで精いっぱいだったが、少しずつ顔の向きや手の高さ、腰の高さなど細かいところまで詰めて合わせられるようになった。少しずつ連帯感が出てきた。

また、アラビア語、フランス語、日本語の合唱も実施した。

久しぶりに歌を歌いとても気持ちがよかった。運動して声を出して、みんなでご飯を食べて、とても健康的な生活をした1週間であった。幸せである。とても楽しい1週間であった。また、他の地域の隊員さんとたくさん話すこともできたし、一緒にダンスの練習をすることを通して、彼女たちのパーソナリテも以前よりも随分見えてきた。たまたまなのかもしれないが、今までほとんど話したことがなかった人に限ってとても素敵な方が多かった。

同じ国にいても、いる場所の環境もやっている活動も全然違うから、なかなか分かり合えるものではないし、気の合わない人もいるけれども、少しは分かり合える仲間がいたほうが楽しいのだろう。

練習の甲斐あってか式典のソーラン節と合唱は無事に終えることができ、モロッカンからも、ダンス良かったなどとの声を聴くことができてとても嬉しかった。

 

その2日後に大使館主催の日本祭りがあり(毎年開催)、ボランティアブースを設けて、浴衣の着付けと射的、習字体験などを行った。私は浴衣を自分で着ることはできるけれども、人に着せることは初めてであり、手間取ったりもしたが、何しろ一日中人に着付けていたのでだんだんと上手くなり、最終的には帯にアレンジを加えたりして勝手に楽しんでいた。

日本祭りに来るモロッコ人は、ベースとして親日であるという特徴があるため、「こんにちは、きものきたいです」とか、「ありがとうございます」などなどの日本語で話しかけてくる人も多くいた。流暢に日本語を話すモロッコ人は、日本人のようにぺこぺことお辞儀をしたりする姿もみかけることがあり、少し微笑ましかった。

日本語教師として派遣されている方の話によると、日本語を流暢に話せるようになればなるほど、日本人のような仕草や性格になっていくとのこと。モロッコにいながら、言葉を通して、仕草なども日本人化していくのはとても不思議であると同時に面白いと感じた。

 

その日の夜は、あと数日で日本に帰られるシニアボランティアさん(40歳以上の隊員さんを呼ぶ)が、他のシニア隊員さんの自宅で、食べきれないほどの日本料理を作ってふるまって下さった。

しかも、私たち若者たちは、事務所からの支給額がシニアさんと違って安いため、売っていたとしてもなかなか魚介類に手が出せないということを知っているため、あえてこちらで高額の海鮮を沢山使った料理ばかりを作ってくださった。他の隊員は「これは、シニアの本気料理」と言っていたが、本当にその通り。あと数日で自分も帰国するという貴重な時間にも関わらず、朝から市場で魚介から野菜まで買い込んで、仕込みをして、夜ご飯をふるまって下さった。

もっと早くお会いして、もっとたくさんのお話を聞きたかったなぁ。とっても素敵な方で、みんなのお母さんのような方だったよう。彼女と出会えてよかった。

 

これくらい懐の大きい人になりたいなぁ。

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ごちそうさまでした。

また、がんばる。

 

このあと、久しぶりの生魚に身体がびっくりしたのか、ただ疲れてたのか、なんだか知らないが、体中に蕁麻疹が出て、一晩中身体が痒くて熟眠できなかったのは、内緒。

 

続く。

疲労の原因

こっちに来てから、なかなか気力がもたなくて、たった週5、7時間病院にいるだけで、-しかもそれは日本の労働量と比にならないくらいまったりとしたもの-非常に疲れる。

ただ、運動不足で体力が落ちているのかなとか、やっぱり異国に慣れたと思っていても、まだ慣れていないのかな、とか、色々考えらえる疲労の可能性は沢山あったから、きっとそのせいだと思っていた。恐らく、その影響もあるだろうが、自分の中の主な原因が突き止められた。

恐らくは、看取りが多すぎることにより、自分の精神的な苦痛がなかなか消化しきれないことにあるのだという結論に至った。

多い日は一日2件とかある。

こっちでは家族のメンタルサポートを積極的にしようという心はあんまりない。こちらの人は沢山子どもをうむから、そのうちの何人かはダメだったという人の話も聞く。スタッフもまた次を産めばいいというようなことを言い母を励ましたりもしている。でも、子どものベッドサイドで涙を流している母親を一人になんてできない。私は、ひたすらずっと横にいたり、軽く会話してタッチングを促したり、母親の背中をさすったり、手を握ったりしている。お祈りしながら子どもの体を触っていたり、涙を流し続けたり、呆然と表情を硬くしたり、人ぞれぞれであるが、みな苦しんでいる。その時間の重さと言うのは、時間がとまったように感じるほどこちらも辛い。お腹の中に子どもがいると自覚したときから女性は既にお母さんになっている。生まれてからの歴史ではない。

別に看取りの方向性でなくても、点滴1本、経管栄養チューブ1本だって、採血の後の絆創膏一つだって、母にとっては苦痛である。

 

一人でやるからこんなに疲れるのかとも考える。

でも、元気になって退院した子どものお母さんたちは私のことを覚えていてくれて、つい先日も出勤時に外来で私を見かけて声をかけてくれて「うちの子と写真撮って」と、子どもに「ほら、コーキーよ、あんた」と言って聞かせたり、大きくなったでしょと言い私に抱っこさせたりしてくれる。

その瞬間の嬉しさは新生児看護師の冥利に尽きる喜びなんだが、現場のスタッフはそこまで一人一人の患者への思いはないようだ。

そういうのが新生児看護師の幸せなんだけど、なぁ。

でも、疲労の原因がわかったから、その量を自分でコントロールすればなんとか2年間いられるだろう。

 

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こっちの伝統的な服を買ってみた。なかなか気に入った。町の中の仕立て屋さんに、裾上げしたいとお願いしたら、くっちゃべりながら30分くらいかけて…やってくれたが、しゃべってるうちに仲良くなって、結局お金はいらんよと言ってくれた。すごく素材のいい服を仕立ててたから、いつか買いに行くよ。たぶん。

 

続く。

復活

しょっちゅう急変はある。

大概の場合、一回目にはアドレナリンを使用して回復。しかしその直後、二回目の時には、回復できずそのまま看取りとなることが多い。また、もし二回目に回復できたとしても、その日の夜を越せることはほとんどないように感じている。急変時の対応については、つっこみどころ満載なのだが、何を言ってもこれでいいんだと話を聞いてもらえない。仕方ないので、私は必要なものを走って取りに行ったり、邪魔なものをどかしたり、そんなことをすることが多い。

 

その日も、朝から多数のスタッフに囲まれて、吸引、酸素、マスクバック、胸骨圧迫などあれこれした上で、回復できない子がいた。しかし、アドレナリンを入れて回復。

その数時間後に再度、心肺停止して、同様の蘇生をされている。今度は回復しない。医師はいつものごとく「もう終わりだ、何もしない」と言い、子どもの元を離れていった。処置の激しさで、身体に血がついている。看取るにしてもこんな血まみれな姿でお母さんたちに引き渡すなんてどうしても耐えられないし、独りぼっちになんてさせたくないので「身体をふいてあげてもいいか?」と医師に聞くと「それはいいね」と言ってもらえた。

湿らしたガーゼで身体について血液を拭きとりながら手をぎゅーっとにぎり頭をなでなでして「がんばったね~、えらいね。あなたが大好きよ」などと日本語で話しかけていたら、なんと身体が動いた。びっくりしてモニターを確認する。

モニターを見ると心拍数が少しずつ上昇し酸素飽和度が少しずつ上がっていく。

数分後には、酸素飽和度100%、心拍数140回/分。眼を疑った。モニターを疑った。何かシステムの誤作動かなんかかと。

赤ちゃんは何事もなかったかのような顔をしながら規則的な呼吸をして寝ている。

こんなに長時間にわたり脳の低酸素状態が続いたから、色々と心配はあるけど…なんの薬を使うこともなんの処置をすることもなく、ただ身体を拭いていたら、復活した。 

何より、私が一番びっくり。気が動転して狼狽える。少し怖かった。

 

この子の生命力の強さと生きたいという意思の強さをひしひしと感じる。たぶん、とっても強く生きたいんだろうなと考えていた。

とりあえず、主治医をひっぱってきて「見てこれ」と言うと、「あら、コーキー(私のこと)、トレビアン」と言って去っていった。

付き添いしていた母が急変の間、離席させられていたので、廊下の母に大丈夫だと伝えた。 

看護長に呼ばれ「ちょっとまってくれ、今子どもが大変なんだ」といっても聞いてくれず「いいから、とにかく、会議だから来い、来い」といわれ、不安ながらも離席。一人になったら、寂しくて具合が悪くなったらどうしようと心配だった。

でも、私が帰宅する前も、すやすやと寝ていた。

 

翌日。

朝、ベットがあった場所に子どもがいない。付き添いしていたその子のお母さんが荷物の整理をしていた。声をかけるが表情が非常に明るい。

私は状況が全く読めず、周りをよく見ると、子どもがベッド移動されていたようだった。なぜか保育器から脱出し、赤ちゃん用の小さいベッドにいた。しかも酸素も使用せず点滴1本で過ごしていた。どうして保育器からわざわざ出したんだ?それよりも、どうしてこんなに元気なんだ?本当に昨日と同じ子か?

何があったんだ。モロッコには不思議なことが溢れている。きっと、これも全てアッラーのおかげなんだろう。全くわからないが、とにかくこの子の生命力は強い。

赤ちゃんって本当にすごい。

 

その翌日。

今度は、その病室にその子の姿がない。私は勝手に、さすがにもう駄目だったのかな。と思っていたら、重症部屋の方に母がいて、移動になってこっちに来たんだと言っていた。そして、こどもの面会中に、呼吸器のアラームにとらわれることなくイスを並べて足を延ばして爆睡する母。

いや、子どもも図太いけど、母が図太いから子も強いのかもしれん。たぶん、少しずつ具合は悪くなっていくだろう。

でも、この子はとっても強いし、意思の強さをひしひしと感じる。

 

 

 

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写真は今回の内容には全く関係ないけれど、先日、電車の車体にとてもきれいな宣伝があったから思わず写真を撮ってしまった、その写真。しかも、この列車には乗らなかったんだが…。

 

続く。

来モ

来モ(=モロッコに来ること)

私が、モロッコに行きが決まったとき、多くの人に「夏休みはモロッコに遊びに行くからね~」と言われたが、これは一般的に行く行く詐欺(笑)で、まさか本当に来る人がいるなんて夢にも思わなかった。ウィンドサーフィンをしていると、天気図などから「今週末は吹く‼」とか、「明日は波が入る‼」とか、みんなの期待が高まるとなぜか風は吹かずに波も入らないということがよくあった…。それは、吹く吹く詐欺として有名な話で、「誰だよ~吹くって言ったの~‼」と笑いあっていた。

 

日本からモロッコへ行く飛行経路としては主に下記の2パターン。

①日本-フランス-モロッコ、②日本-ドバイOrアブダビ-モロッコ

自分が実際に来るときもそうだが、2年留まるとわかっていたから耐えられたが、長い長い…長い。私は飛行機が嫌いでないタイプだからまだいいのだろう。

映画を何本もみて、機内食、一緒に来た仲間と飽きるほど話して、機内食、寝て起きて、機内食‥‥

私にとっては気持ちを整理しながら来るのにちょうど良い時間だったとも言える。

 

元職場の同僚が、年に一度しかとれない貴重な長期休みでモロッコに遊びに来てくれた。ツアーだったため、彼女たちの初日の夜の数時間会う程度であったが、夕食までの時間をタクシーで町の案内をしたり、スーパーで買い物をしたり、アラビア語を少し伝えたり、事前に用意しておいたモロッコ土産とお願いしていた日本物資を交換したり、職場に手紙をたくしたり…有難い。

いや、もともと、バックパックとかするタイプの人たちでないから、モロッコで不便だったり、観光客へのあたりもきついことも多少あるからいやな思いをすることもあったであろうが、念願の砂漠に行けたのが嬉しかったらしい、楽しいと言ってもらえてよかった。事務所の規定で、メルズーガやアルフード、ザゴラなどの地域に私は行けない。仕方ない。帰国してからまた遊びに来るしかない。

 

また、友達が来て話をする中で、ここで自分がどれだけ貴重な経験と時間をさせていただけているのかも再確認できた。 ここでの生活が当たり前になっているけど、きっとあっという間に2年間終わってしまうんだろうな。

日本に帰ったら、違った意味でまたカルチャーショックを受けるんだろうな。それはそれでしんどい。日本のカツカツした感じに戻れるかな…日本の病院で働けるかな…厳しい。

職場で、どうしてそんなに君はテキトウなの?とか、ガサツ‼とか、キタナイ‼とか…言われそう。

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アルガンオイルやサボテンの実のオイルなどをプレゼントした。モロッコは女子の旅行には楽しい国である。

任国外旅行の問い合わせも入った。色々と予定が入ってきて、おちおちボーっとしてられんけん。

 

続く。

久しぶりの初めて

イード休暇までの期間が夏のバカンスシーズンの雰囲気です。たぶん、もう少ししたら、日常生活に戻ろうかというところなのでしょう。

いつも、面会受付から入退院管理、ベットコントロールまでを一人でこなすとても働き者のスタッフがいる。私は、以前からもしも彼が風邪をひいて休んだりしたら、病棟はグチャグチャになり、きっと機能しなくなるのだろうと予測していた。

そんな彼もバカンス休暇となり、病棟から姿を消した。予想外に、セキュリテに関しては守衛室から番人を交代で駐在させ、彼らに少しずつ勤務を内容を副師長が指導して、何事もなかったかのように病棟がまわっていた。今まで誰かがいなくなると、彼女がいないから仕方ないんだと言い訳をしたり、人のせいにしている場面をよく目撃していたが今回はしっかりと彼の休暇をカバーする対応がなされている、感激したことは言うまでもない。

そんな代理できたセキュリテの人と話していると、二言目に「君はムスリムか?」と聞かれた。「いや違うよ。とてもリスペクトしているけど。あなたはムスリムでしょ?」と言うと、予想外の返答があった。

「実は、内緒だが、私はムスリムではないんだ。」と言われた。

驚き過ぎてなんと返事をしていいのかわからず、「ええぇ~‼‼‼それ、ほんと?で、あなたの宗教は?」と質問すると、

「クルスチャンだ、モロッコにもわずかにいる。でも、これは内緒なんだ。」と言っていた。

ラマダンもしない、モスクへの礼拝もしない、モロッコ人がいるなんて。確かに、統計上ほんのわずかにクルスチャンがいることは知っていたが、きっと移民や仕事で出稼ぎできている人たちのぶんなのだろうと考えていた。もうずいぶんこちらになじんできており、だんだん初めて見た聞いたということが少なくなってきたのだが、私にとって多少衝撃的であった。

聞くと、彼の片親はドイツ系で彼らがクリスチャンであるから、彼の家族はみんなクルスチャンだそうだ。確かに顔つきがいくぶんヨーロッパに近いようにも感じる。

きっと少数派マイノリティとして、少なからず苦労があるのだろう。その苦労を知っているからこそ、それ以来、ムスリムでない私に親切にしてくれるのだろう。

私は2年で帰国するが、彼はほとんどがムスリムの中で恐らく生涯生きていくのだろう。ラマダーン中などはとても生活しづらいはずだ。彼は勿論、モロッコ方言アラビア語を話していた。アラビア語にはイスラム教と関連した語彙が日常的に使用されており、私も彼らと会話するときには使用しているが…彼はその言葉を使うのだろうか…

彼に聞いてみると「神が望むなら」「神様のおかげで」という言葉は使用しないと言っていた。私は信仰心からではなく、彼らの口癖として移ってしまっているためアラビア語を話しているとつい話の流れで「神が望むならね(本心としては、気が向いたらねとの思いで使用)」とか「神様のおかげで(日本人の『お陰様で』のニュアンスとして使用)」しまくっている。

 

きっと顔も人種も違って、明らかに違う思想をもっているとぱっと見で理解されて、しかも2年間の期間限定の私の方が彼よりもはるかにモロッコで生きやすいだろう。

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続く。

なぜ、カウンターパートとの関係づくりに苦慮する必要があるのか?

表題にある通り。

よく、協力隊関係者やOVの方々から「カウンターパートとの関係を良好にすることで活動がうまく行くようになる」とか「カウンターパートとの関係を大切にした方がいい」という意見や話をよく聞く。

 

私にとってそれは教授であり、彼女は大変多忙であり、現実的に活動のパートナーになってくれるのは看護長。

勿論、大切にするし、したいと思うし、彼女の医療に対する情熱をとても尊敬している。でも、どうして私が彼女のことを大切にする必要があるんだろうかと考えるとどうしてもしっくりこなかった。確かに彼女が私によい印象を持ってくれたら、いろいろやりやすくもなると思う。それが結果的に赤ちゃんや家族のためになることは勿論だろう。 正直、今の段階で私と彼女が良い関係とは思えない。話も聞いてくれないし、意見を伺っても教えてくれない。彼女にとってのボランティアとは、ただ長めにいる研修生程度の感覚なのだと感じている。それ以前の問題として、教授に話をする内容の了承を看護長たちになかなか得られない。看護長たちさえも、忙しいからとなにも聞いてくれないし、教えてはくれない。

全てスタッフづてで、だいたいの情報を得ている。またポジティブに捉えれば、末端のスタッフよりも知的レベルが高い分、色々と警戒心やプライドもあり、私とベタベタしにくいという内心もあるのかもしれない。そして、ポジティブに捉えれば、スタッフとの関係づくりは比較的良好であるともいえる。医師、看護師、研修生、清掃スタッフ、倉庫担当、などなどの各方面のスタッフに好印象を持ってもらえており、「君はいい子だ」と言ってくれる人もいるし、「どうして、彼女とはセルフィーしたのに私と撮ってくれないのよ‼」とか言ってくれるスタッフもいる。本当に幸せである。

きっと、自分を受け入れてくれる人がいる場所があることは、相当恵まれて幸せなんだろう。

 

私が、苦慮してまでカウンターパートとの関係づくりに力をいそしむべきなのだろうか?いや、どうしてそこに悩まなくてはならないんだろうか?

と、ふと疑問になった。

ただでさえ、生きているだけで、多少ストレスを抱え、日本よりも疲れる。

その上、私がカンターパートとの関係づくりに力を尽くしてどれくらい赤ちゃんと家族にフィードバックできるのだろうか?もともと、私に与えられた時間は2年しかない。関係が良好だとしても、末端のスタッフたちが、私のことを良く思ってくれなかったら、いくら教授が言ったって、「教授の前ではやるけど、いないときはやらない。」という、いつものパターンになることが眼に見える。

 

もし、教授の了承がないとフィールドに行けないタイプの派遣の隊員はカウンターパートは命綱になりかねない。でも、ポジティブに捉えれば私はたとえどれだけ関係が悪化しようと、彼女たちが私に「もう病院に来ないでくれ」と言わない限り(人手不足のため現実的にあり得ないが…)、私は朝の8時から夕方の16時まで病棟にいられる。その中で、看護師や医師と関わり、赤ちゃんやお母さんたちと関われる。

 

そこにストレスを抱える必要があるくらいなら、一人でも今いる赤ちゃんたちやお母さんたちに「どう?元気?赤ちゃん可愛いね。少しずつ大きくなるから大丈夫だ」と、声をかけていったほうがいいのではないかという考えも出てきた。

 

そのことに気づいたら、非常に楽になった。

たぶん、国際協力の一般的な手法では…とか考えだしたら、私は正しい方法をとっていないであろう。でも、今、私が可能な最大限パフォーマンスを可能にするためには、いかに減らせる限りのストレスを減らしながら、力を注ぐべきは、これからモロッコで長く生きていくであろう、赤ちゃんとそのお母さん、若いスタッフ、若い医者たちにアプローチして少しでもいろんな可能性があることを知ってもらった方がいい。

 

仕事ではないから、結果が数字で出せなくても、研究結果がでなくてもいいのだ。ポジティブに捉えれば…私の活動が眼に見えなくても、モロッコの人たちに伝えたくて大切にしたいことをコツコツ2年間やっていくスタイルでもいいではないかという結論に至った。

 

いろんな意見を聞いて、多少その意見に振り回されることもあったが、現場にいるのは私だし、実際に活動するのは私なので、意見を聞いても自分の思うとおりにしようと決めた。

 

※カウンターパートとは、JICAのJOCV,SVにとって活動のパートナーとなる人のことです。 

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続く。