風邪、時々、chellah遺跡

ロッコに来てから、何度ととなく体調を崩した。

始めは体調を崩して熱を伴ったが、現在は鼻汁やくしゃみ程度があったり治ったりを繰り返す。この4か月で日本の何年分の風邪をひいたのだろうか。

ロッコに来てからいくら体調を崩しても食欲を失うことはない。有難い。栄養管理はとても大切。

 

こんなに風邪をひく要因の外的因子として。

ロッコ人自体がとてもよく風邪をひいている。職場では誰かがいつもくしゃみをしていて、誰かがいつも「私体調が悪いの」と言っている。でも、感染管理なんてない。コップは洗わず使いまわし。トラディショナルな食事スタイルとしては、家族で一つの大皿から手で取って食事するスタイル。くしゃみや鼻水があったってマスクなんてしないし、平気で人に向かってくしゃみや咳をする。感染症を円滑に運搬しているように見える。

内的要因として。

私の身体にモロッコのウイルスの免疫がなかった。知らぬ間にたまるモロッコストレス?の影響が大きい。循環器、新生児科のクリーンな病棟で勤めて、仕事中も常にマスクをして仕事していたため身体がウイルスに弱い。運動不足、こちらにきてから私の考える運動ができていない。ラマダーン中に断食で身体を極限まで省エネする力を身につけたため、全身が脆弱化しており未だ回復していない。私のNK細胞がサボっている、というのは冗談。

とりあえずよく食事はしているから、発熱したりする重症化を避けられているのであろう。身体を強くしないといけない。外がうるさくて時々眠りが浅くなることもあるが、睡眠も充分に取れている。

 

運動だ運動‼

鼻水をたらしながら、先日、考古学博物館の人に教えてもらった遺跡に行ってきた。行きは頑張って歩いて向かい、帰りはたまたま送迎できていたタクシーで帰ってきた。

当日モロッコは祝日であったため、モロッコ人は入場するのが無料だったそうで人が多かった。沢山アラビア語を話してみたが、君は外国人だろって言われ、しっかりと100円請求された。職場の人には「君はもうモロッコ人だ」と言われているのに…アジア人の顔はごまかせない。別にお金はいくらでも払うんだが、外国人と言われると少し切なくなる。モロッコの観光地では、首都はほとんどないよねと言われてしまいがちであるが、住んで探してみると見どころは色々見つかる。

折角だから旅行では知れないモロッコを。

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入口はとてもモロッコ式。

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中に入ると一気にタイムスリップ。普通にあるのがすごい。

インターネットの接続が悪く、載せたい写真が全て上げられない。

遺跡の続きはまた。

 

続く。

情熱それは、心の栄養。私の栄養は?

それは野球観戦。

元々、野球を見るのは好きだったけど、好きなのは高校野球の甲子園‼

毎年繰り広げられるドラマに涙を流しながら応援していた。みてるだけで夏の一日終わってしまうのが残念だが。

 

ロッコに来てからは、都合によりプロ野球を観るようになった。たぶん、きっかけは何でもいい。観戦するようになって、どうしてこんなに楽しいことを今まで知らなかったんだろうと思うのだ。

そう、きっとなにかを好きになるのに理由なんてない。恋愛みたいなセリフだが。

 

プロ野球に完全にハマってしまった。

本当に本当に、魅せてくれるのだ‼素晴らしいのだ‼そして、プロ野球観戦にハマってからとても私は元気になった。

毎日仕事終わりに自宅で、誰がが作ってくれるハイライトをYouTubeで一人きゃーきゃー言いながら見る。

負けた日は、残念ながらハイライトはない。仕方ないけん。また明日‼である。

 

対立と摩擦は好きではないし、飲み屋でも政治と野球と宗教の話しはするなと言われているので、球団名は避けておきます。

 

 

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つづく。

しょうがいとはなんなのだろうか

交通事故も多く、整形の技術も低くたぶんリハビリなどの技術も乏しいのだろう、四肢の変形が著しい人や四肢欠損している人。

視覚しょうがい、聴覚しょうがいのある方を町で多く見受ける。正確にはわからないが、日本よりも割合が多い気がする…

中には、道端にいて、「10円下さい」とものごいしている人もいるが、ティッシュを売ったり、中には視覚しょうがいのある方で、町のなかを歌を歌って周りお金を稼いでいたりする。その歌声がめちゃくちゃ良い‼思わず人混みを掻き分けてお金を渡しにいく。

また、視覚しょうがいのある方が道をわたろうとして、車が来るかわからず道で立ち止まっていると近くにいる人が、「今は車が来ないから行けるよ」などと声をかけながら、彼らの腕をひき一緒に道をわたっている。電車の乗り降りも、日本では駅員がついているが、こちらでは近くにいる人がみんなで手伝って車椅子を乗せたりしている。

ロッコには点字ブロックや信号の音声ガイドなどはない。道もデコボコだし、所々に穴もある。

でも、近くにいる人と助け合える世の中なら、点字ブロックも信号の音声ガイドもいらないんだなぁと気づく。

詳しいデータがあるかわからないが、もしかしたら、日本よりもしょうがいを抱えた人の外出率は高いかもしれない。

 

しょうがいってハンディキャップって、なんなんだろう。

 


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祝日じゃないけどお祝いだそうで、お祭りのような雰囲気。町にはアート作品と音楽が溢れている。歩いてるだけで幸せ。

 

つづく。

時間

よく子どもを生むと自分の母親の偉大さがわかるなどと言われることもある。

私は今のところまだ子育てをしたことがないが、世界中のお母さんたちが偉大なのはとてもよく感じる。もちろん、お父さんたちも偉大である。

 

子どもの頃、何かに挑戦したけどうまくいかなかったことを悔やみ「こんなことになるんだったら始めからやらなければよかった。時間の無駄だった」と、随分大人ぶったことを母に伝えたことがあった。

そうするとすごい勢いで母は怒りだして、「どうしてそんなこと言うの‼二度と言っちゃいけない!あのね、無駄な時間なんて無いんだからね‼」

 と激怒されたことがあった。

 

私の中学生の時の人生設計では、

18歳高校卒業

20歳で学生結婚

21歳で看護学校卒業

23歳で第一子出産

25歳で第二子出産

28歳で第三子出産

その後は子育てしながら仕事をするという目論見であった。40・50歳代になったらきっと孫に囲まれて楽しくやっているだろうと…

母に子どもをうむんだったら若いうちのほうが体力があって楽だよ…とささやかれたこともあった。母は23歳で私をうみ、26歳で妹をうんでいる。

大人になり色々なことを知り、考えが大きく変わり、こんな世の中に自分の子どもを残したくないと思うようになった。たとえ万が一、誰かと結婚したとしても、子どもはもうけずに夫婦で時間を過ごしていこうと思っていた。

 

実際の人生は、

18歳高校卒業。高校生活は心底つまらなかった。看護学校に入学するためだけに通った。ある意味で忍耐強さを得た3年間であった。子どものころから長女だからなのか、何かといつも我慢していることが多くて、大人になって自分でできるようになったら海外旅行(なぜかマチュピチュとスイス)に行きたい。海の近くに住んでみたいという願望が強い子どもだった。このころまでは自分のしたいことできなかったり学校の決まりなどが多くてとても息苦しい生活に感じていた。

21歳看護学校卒業。色々と自由が利くようになり楽しかった。看護大学に編入したかったが、相談した先生が悪かったのか、ろくに私の考えを聞くこともなく「それよりもまず国試をなんとかしなさい」と言われた。今考えると悲しい話だ。

23歳仕事がきつくて、違う仕事をこっそり探す。看護師で海外に行くことなんてすっかり忘れている。いや、そんなこと言ってる場合ではないと思っていた。

20代後半は比較的真剣に仕事をする。産科病院、移行医療、在宅医療、療育などを少しずつ勉強して、少しずつ仕事が楽しくなってきた。職場でお昼休みに【なんで看護師になったの話】をしていて「そういえば、本当はJICA行きたかったんですよね…でも私英検3級しかもってなくて…」と言っていてたら、先輩に「あー知り合い何人か行ってきた人いるけど、語学はそこまでできなくても大丈夫だと思うよ。むしろ英語以外の現地の言葉やることが多いから、意外とハードルひくいよ~調べてみなよ~」「絶対病院の中がダメなタイプでしょ、さっさと辞めちゃいなよ~」と言われ、家に帰ってこっそり調べ始める。「なんだあ。これなら、今すぐ行けるじゃん」と思い、試しに応募してみた。まあ落ちても日本でやりたいこともたくさんあるから別にいいや~という勢いであった。

今は、気が付いたらアフリカ大陸にいた。予定変更に予定変更を重ね、マチュピチュもスイスも行けていないにも関わらず、どうやら、アフリカ大陸で30歳を迎えるらしい。私の人生は行き当たりばったりで、予定変更ばかりであった。でも、軸の中には変わらないものもある。でも、この順番でこの内容の時間を過ごしてきたから、今の自分なんだろうなというのがよくわかるから、私にとって無駄な時間はなかったと思う。

日本では女性は若いほうが良いというような風潮があるように感じるし、女性自身も若作りするようなことを多く見受けるように感じている。実年齢よりも若く見られるとうれしいと言う女性たち。

日本にいるときからその風潮が好きではなかった。人間は年を重ねることに成長して魅力は増えていくものだと考えている。どうして時間に逆らうようなことをしなくてはいけないのか。進んでいく時間をその時々で楽しんで生きていく方が絶対に素敵だと思うのは、少数派なのだろうか。

出発前に、私のその考えを知っているウィンドサーフィンの大先輩に「30歳を日本じゃないところで迎えられてよかったね」と言われて確かにその通りだと思った。

 

帰国するときにはもう少しちゃんとした30歳の人間になっていたい。

 

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手の形のキーホルダーはファティマの手といわれて、魔よけの意味があるそうです。

生活の中の色々なところにこのデザインがモロッコでは使われている。

先日、日本人4人で外食をして、すっかり日本気分になってしまい、お店を出るときにめちゃくちゃ大きい声で「ごちそうさまでした~‼」とうっかり言ってしまった。

 品格のある30歳は遠い...

つづく。

100人の仲間 急性期からの脱却

JICAボランティアで海外に派遣される前には訓練所で35~70日間の合宿訓練を積み、仲間と切磋琢磨しながら語学や文化慣習を学ぶ。

私の隊次では青年とシニアを含めトータル100人の訓練生がいたが、幸運にも全員無事に訓練を終了し卒業することができた。様々な理由により大体1人くらい途中で辞めざる負えなくなる人もいるらしい。規則なども厳しいため、ルール違反や語学の成績が悪かったりすると退所になることもあるそうだ。

英語もほとんどしゃべれない私がフランス語の授業を受けるのは本当にハードで語学の成績が悪くて、落第しないか本当に不安で仕方がなかった。でも、担当していた先生はなぜか試験当日に試験を受ける前から「君は絶対に落ちない。大丈夫だ」と言っていた。実際にもなんとか合格することはできた。訓練所では文字通り死ぬ気で勉強したフランス語だが、残念ながらモロッコに来てからほどんどフランス語は使っていない。なぜならモロッコ人はフランス語が話せる人でもほとんどモロッコアラビア語で会話している。でも、勉強したことには意味があったし、これからもフランス語の勉強は続けていくつもりだ。よく海外で生活すると自然に耳が慣れてリスニングは上達するということもたまに聞くがそのようなことはここでは期待できない。自分自身を律して努力を続けるに限るのだ。

私は今まで病院の中の病棟の中で仕事をしてきたため、恥ずかしながら本当に世間知らずな人間であると自覚している。その私にとって色々な職種のプロフェッショナルが集う訓練所はとても楽しかった。

涙々の修了式から2週間後~1か月後の間に、それぞれの派遣先へ向けて日本から出発する。今まで縁のなかった国でも友達のいる国になるととたんに親近感がわく。今もみなそれぞれの活動場所で頑張っているんだろうな…と考えたり、懐かしんだりもする。

 

それぞれその土地の文化や習慣、その土地で信仰されている宗教によって、みな全然違う生活をしている。きっとみんないいことも悪いことも沢山ある。環境の変化で体調を崩し苦しんでいることもあるだろうし、派遣先との人間関係に悩んでいる人もいるだろう。生活環境が厳しくて辛い人もいるだろう。みな思い思いにSNSなどに自分の状況を報告したりしている。

隊員によっては配属先から熱烈に歓迎されて、色々おしえてほしいと到着まもなくから精力的に活動し勉強会やワークショップなどを行っている人もいるし、なかなか思うように話が進まず苦戦していることもある。

私の場合は後者にあたり、配属先のボスには受け入れてもらっているものの彼女は大変多忙でほどんど配属先にはいない状況。その部下たちは忙しくて仕方ないから一人でも働き手が増えたならありがたい。とりあえずたくさん仕事してくれというのが本音のよう。現場の医療の質は酷いもので目を覆いたくなることもあるが、看護長は日本でも導入し始めたような新しい看護ケアを行いたいという。志を持つことに対し、とても尊敬するが実際の現場はそんな場合ではない。フランス語の語彙と表現の乏しい私がプライドの高いモロッカンに上手に説明するのは至難の技。日々苦しむ。同じ方向を向きたいのだがそう簡単にはいかない。そりゃ始めから上手くいくわけないし、仕方がないだ。

 

他の隊員が現地の人と仲良さそうにしていたり、活動がうまくいったことなどの報告をみると、そこの任地をうらやましく思ったり、自分の力量のなさに絶望し悲しくなったり、比較的ブルーな気分になることが多かった。いる場所もやっていることも違うのだから仕方ない。仕方ないのだと理解しながらも、気持ちが追い付かず、なかなか苦しかった。その時はどうしてこんなに苦しいのかよくわからなかった。今振り返ると、頭と気持ちの背離が心身の健康に与える影響を身をもって体験した3か月であった。

そんな鬱々と「2年間ここでやっていける気がしない…このままだといつか病気になるかもしれない…でもモロッコ人が一人も悩んでないのに私だけ悩むなんて不本意だ…」なんて思いながらも、3か月経過したあるとき、気が付いたら本来の自分を取り戻していた自分に気づく。たぶん、職場や活動に悩むことはたくさんあるだろう。これからもたくさんの赤ちゃんを看取るであろう。酷いケアを目の当たりにし続けるであろう。でも、私の急性期は終わった。もうたぶん何があっても大丈夫だと確信した。

 

今のところ見通しは全く立たない。

ただ、日本にいるときからわかっていて、こちらに来てもやっぱりそうだよねと実感していることが2つある。一つはネガティブなことでもう一つはポジティブなこと。

まず、一つ目のネガティブなこと。

それは、やっぱり病院に看護師が一人入って、なにかを訴えたって今更大人になった人に何を言ったってどうしようもない。

出国前にも数人の先輩に弱音のようにこのことは既に伝えていた気がするが…やはり現実もそうであった。特にこの国の場合は…。いや他の途上国へ行ったことがないので全ての国いえることではないのだと思われる。こちらに来て3か月経過し、やはりそうだよなと実感。いい意味であきらめた。あきらめたところから、自分がどうすべきかと考えていきたい。やはり本気で変えたいなら、国のシステムを変えないといけないし、子どもの教育を変えないといけない。その予測は間違っていなかったと実感。元々自分が大きなことをできるなんて全く思っていないので、微力ではあるが自分が子どもとお母さんたちにできること。それはたくさんある。たぶんそれは目に見えないし、立派なレポートにできるようなことではないだろう。でもとても意味のある事なんだということはこちらに来て3か月、しっかりと肌で感じることができた。この期間だけでもここにきて本当に良かった。こなければ、こんなことを知ることができなかったということはたくさんある。今は、直接母乳を介助し元気になって退院していった赤ちゃんたちが、少しでもよい発達をし、将来モロッコの未来を背負って立つような立派な人間になってほしいと願うばかり。未来への希望を持てるこの職場に居られるだけで本当に幸せなこと。

もう一つのポジティブなこと。

それは、やっぱり最後は人間だということ。

なんか帰国直前の人が言うようなセリフかもしれないが、出国する前から仕事を通して、「人間を救うのは人間の温もりだ」というのは自分の中での軸になっていたし、別にスキンシップだけでなく、表情も態度もすべてにおいて。今まででよかった職場は、一番初めに私を育ててくれた看護長のいた病棟。その看護長の人柄のすばらしさはこんなところに文字に起こしきれないものであり、私は一生かけて彼女のようなケアができるようになり、彼女のような人間になれるように目指したいと心から思うが、一生かかっても難しいかもしれない。彼女の元だからスタッフはついていったし、仕事も頑張った。残念なことに、人徳ってこういうものなんだと気づいたのは、そのその病棟から離れてからであった。多少の悔いもある。その素敵な看護長が率いる職場は人事の関係で今はずいぶん変わってしまい、今となっては「あのころは本当に良かった」とみな口を揃えていい、私の中では伝説となっている。

だから私は、とりあえず自分という人間を受け入れてもらい、可愛がってもらうことだけに重点を置いて3か月過ごした。職場はもちろん二年間お世話になる事務所においても。とりあえず、毎朝、フロア全部を周って一通りスタッフに挨拶。そして、お母さんたちに挨拶。とりあえず、ニコニコと。とてもよい仕事してるわ、今日も忙しいのねなどと言いながら。

始めは挨拶しても無視されたスタッフ。誰だこいつという白い眼で監視してくるスタッフ。これがずっと続いたら、いつか胃に穴が開くだろうと確信した初めの3週間。

次第に挨拶に返事をしてくれるようになった。感動の4週目頃。

名前を聞いてくる人が増えてきた。国籍や日本についての質問。2か月目頃。

自分の名前を日本語で書いてくれと言うスタッフが紙をもって寄ってくるようになった。2週目から細々と。学生さんが来ると今でもよく言ってくる。

数人の名前を私が覚え始めると「私の名前言える?」と聞かれる。そういう人に限って覚えていなかったり発音が難しい。そして、私がわからなかったり発音が悪かったり間違えたりすると、めちゃくちゃ不機嫌になる。でも、みんな私のことを「こーきー、こーこー」とかずいぶん適当な呼び方をしても私は怒りやしないのに…2か月目頃から。

スタッフの名前をずいぶん覚える。「おはよう○○さん」「△△、はさみかして?」などと名前を交えて会話をするとめちゃくちゃ喜ばれる。下っ端の女医さんに「メリアン、椅子借りてもいい?」といったら、あらこーきー、私の名前覚えてくれているのね♡とたぶん心の中で思っているのだろうか、私がドン引きするくらい満面の笑みで「もちろんよ♡」と言ってくれた。「私の名前わかる?」にしっかりと返答し相手の子はどや顔になる。おはようと私を見かけて挨拶してくれる女医さんたち。ほっぺにチュチュっと相手からしてくれる人が現れた、感動の3か月目頃。涙が出そうなほど嬉しかった。

 

少しずつ、少しでも、自分を受け入れてもらえるように、相手へのリスペクトを伝え続けて、いつもニコニコしていたら、冗談言ったりふざけたり、たまに踊ったり歌ったりしながら…自分を受け入れてくれる人が少しずつ増えてきた。患者さんにも、スタッフにも誠実であることしんしであることだけは怠らないように気を付けた。

私は初めの3か月辛かったけれども、たぶん私自身が彼女たちに救われた3か月であった。先日事務所のスタッフと話していたらフランス語が全然聞こえなくなっていて自分に驚いた。アラビア語ばかり話しているからという理由もあるが、たぶん職場のスタッフは私にわかりやすいように忙しいにもかかわらず相当ゆっくり話してくれていたことに気づいた。彼女たちの優しさに気づかなかった自分に深く反省するとともに、とてもありがたく思い涙が出そうになった。やっぱり人間は人間にしか救われない。

周りからの勧めもあり、職場に向けてレポートなどを書いた方がいいと固いことを考えていたが、どうしても気がすすまず書けていなかった。彼女たちの優しさに気づき、人との関わりについてもう一度考えてみると、自分が「レポート」なんてそんな偉そうに見えるものを書きたくないんだと気づいた。気が付いて腑に落ちてすっきりした。

腑に落ちてからはあっという間に書きあがったレポートと言う名のラブレター。

「スタッフのみんなへ♡ラブレター!!私は3か月仕事しました。ここで3か月過ごせたのはみんなが親切にしてくれたおかげなの。本当にありがとう。…」と書いて、教授、看護長にみてもらい、私はみんなに感謝したいと伝え、部屋に貼ってもらった。

 

あと1年半ちょっと…なんとかなるだろう。


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 この国は国旗をあちこちに掲揚するのだが、、、どうしてだろうか、突然職場の庭にも国旗が増えた。

この国は何事も唐突なのだ。

でも、私も唐突である。

だから、結局同じなんだが。

 

続く。

滅菌手袋が乱用されている理由の影からみるモロッコで周知の闇

 

今日この頃、いつの間にか「あらっ、おはよう、調子はどう?大丈夫?」とあいさつするときに、モロッコ人自らが私に対して、ほっぺにチュっとしようとしてくれる人が現れた。

もともと閉塞感のあるこの国にいると、私は、そんな小さな変化がとても嬉しく幸せ。

また、朝の調乳室では夜勤者がため込んだ大量の哺乳瓶を洗いながら、アラブ音楽をBGMにかけて歌ったり踊ったりもしている。もちろん私も一緒に踊る。

ここでは私だけ急いでも焦っても何もいいことはない、なぜならモロッコ人はいつだって急がない。それならいっそ私も一緒にスタッフと仕事を楽しんだほうがいいと割り切っている。それがここでのやり方である。変えられる部分はアプローチしてもいいが、変えないほうがいいこともある。そこはちゃんと見極めないといけない。そこに介入することの難しさと慎重さを忘れてはならないと考えている。モロッコ人にとっての幸せや大事なことは、私の常識と違っていても尊重して大切にしたい。

日本では仕事中に音楽かけて踊るなんてことはできない。だろうけれども、日本もそれくらい表情豊かに働いてもいいと思う。

そもそも日本にいるときから私はずっと疑問であった。どうして日本の病院は病棟でBGMとかかけないんだろうと。別にノリノリのJ-POPやHIPHOPなどをかけて踊れとは言わない。ヒーリングソングとかオルゴールとかでもあるだけで、患者さんはもちろんスタッフだって雰囲気が全然変わると思うのだが。

どうも日本の病院という場所は、きっちりと病院という箱の中で、その中のルールと常識に則りその中だけで世界が完結しているかのような雰囲気がある。自由奔放な私にはとても息苦しい場所であった。

今でも、「病院って世界一緒なんだな」「女の職場はやっぱりこうだよな」と思うことはたくさんある。それでもここに慣れてきたのもあり、言葉もろくにやりとりできないくせに、生意気にも日本の病院よりよっぽど意心地が良いと感じている。

誰か早いところ日本の病院という定義をぶち壊してくれないだろうか?

 

本題に戻ると、当院では滅菌手袋が乱用されている。

「当院」と言っている時点で、もう自分の場所になっているのだということも気づかされる今日この頃。

ずっと疑問だった。なぜこんなにも滅菌手袋が乱用されているのか。日本じゃ考えられない使い方(私は乱用と言いたくなる)をしている。

 

滅菌手袋とは。

医療用手袋にはグレードがある。

ディスポーザブル手袋(清潔扱い)は薄手で安価。大量の使用に向いている。

・滅菌手袋は、手術などに使用するもの。ディスポーザブル手袋よりもグレードの高い手袋で、単価も高い。それなりの処置のときに使用することが推奨されている。

究極のところ、簡潔に言えば、別にディスポーザブル手袋の代わりに滅菌手袋を使っても構わないが、値段が高いからもったいない、というだけのお金の話。

  

その、高価な滅菌手袋が酷く乱用されている。

別に手袋を使ってケアしているだけでも、ここでは充分に素晴らしいことである。でも、私はどうしても見過ごせなかった。

ここでは、看護師が滅菌手袋を開封したかと思えば、滅菌手袋の指の部分をハサミで切り取り、駆血帯として使用する。赤ちゃんだから、大人の指の長さが2本あれば充分に足りてしまう…

(駆血帯は、採血のときに、腕に巻いて血液を腕に溜めるもの)

駆血帯がないから代用として使うのはとてもいいと思う。でも、残りはその辺に置きっぱなしか、ゴミ箱へポイ。次に、駆血帯が必要になった時には、また、新しい滅菌手袋を開封…そして、チョキチョキと滅菌手袋を切り取る…

哺乳瓶を洗うためにも使用されている...もちろんきちんとカテーテル挿入の時にガウンテクニック時に使用している姿もみる。

その光景を目の当たりにして思わず一人頭を抱えてしまった。ここでは、もう沢山の日本じゃ考えられない‼を目の当たりにしてきたから、ケアの酷さにはもう免疫がついてここでの常識をなんとなく認識してきた。それらに比べれば、これは簡単に直せることではないか‼と、そのときは思った。

 

私はたまたま日本で勤めていた時に物品係をしたこともあった。人気のある派手な仕事ではなく、地味な業務内容であるが、私はその係の仕事が好きで楽しんでいたし、誇りをもって働いていた。

病院の経営に関与する問題でもあるし、年間で考えると物品一種類変えることが大きなコストの差を生む。とても大切なことだ。お金には多少苦労して育ってきたこともあり、お金に関して、はっきり言えばケチな部類である。その性格が生かせた業務であった。

病棟内で何をどれくらい使用し、その単価がいくらで、メーカーの違いはどれくらいあって、いや、新生児科ではこのサイズばかりを使用していて…需要がどれくらいあり…だから、メーカーを変えるか…そもそも、どうしてこれを使う業務なのだ?いらないのではないか?…スタッフの物品の運用方法を変えるか…など、定期的に診療材料の見直しと棚卸しをして、コストダウンを追い求めていた。

どうしたら過不足なく、棚を整え、使用期限が切れることなく物を使い切り、機能的に収納できるか。

私が物品係をよほど楽しそうにしているように見えたのか、その係が終わってからもスタッフに「これがもうなくなる!頼んでくれ」「これはどこにあるんだ??」と質問されて困ることもあった。忙しいときに言われると、一人の血の通った人間であるキャパシティの狭い私は「どうして自分の働いている病棟内のどこに何があるか全て把握しないんだろう。あなた新人でもあるまいし…それだけで時短になって仕事が楽になるのに…」と心の中で毒を吐いてしまうこともあったが、実際には物品係冥利につきる贅沢な悩みだろう。

 

 

今目の前にある病院の現状として、手荒い場のタオルだって、充分ではない。シリンジポンプだってよく壊れている。赤ちゃんのベッドのシーツだって、服だって、足りてない。コットもオープンクベースの柵も大体壊れている。赤ちゃんが落ちないように、なんとかベビーマットの下に生食500mLや5%ブドウ糖の袋などを入れて赤ちゃんの体を整えている。

それなのに!そんな状況であるにも関わらず!なぜこんなに滅菌手袋があるのか??

長いこと、私には理解できなかった。

スタッフにどうして今滅菌手袋使う?と聞いても、多くのスタッフは「知らないよそんなの、ただここにあるから使うだけだ!」などとテキトウな返事をされたりしていた。

たまたま、倉庫で看護長と雑談していたときに、「どうして、駆血帯に滅菌手袋を使うのか?これは高いではないか‼ディスポーザブル手袋があるではないか、もっとこっちを使ったほうがコストダウンになって、買いたいものが買えるではないか‼」と、訴えてみた。

すると、看護長は、以下のように返答。そして手袋一つにモロッコの闇を知り、ショックを受ける。

「その通りだよ、こっちは高い。こっちは安い。だから、本当はこっちを沢山使いたい。でも、病院はこっちを沢山持ってくる。何度も、こっちがほしいと言った。手紙も書いた。話にも行った。でも、ディレクターは、こっちの話は聞かない。私は看護長でも意見は言えないんだ。そう決まっている。誰の全く話も聞かない。独立して機能している。こっちが必要かは聞かない。ディレクターは、クレイジーなんだ。会社がお金を渡すんだ。だから、ディレクターは、言うことを聞かないんだ。それは、モロッコではノーマルなことなんだ…いやいや、君がディレクターにいっても、無理だ。彼らは話を聞かない。難しいことだ。…いやいや、こっちにはこない。部屋にいるだけだ。スタッフも患者のことも考えない。大事なことは自分のことと自分のお金だけだ。クレイジーなんだ。…いやいや、誰もそんなことで怒らないよ。わかったか?」

 

この看護長は、いつも私を見ると「おはよございます‼」と日本語でいってくれたり、表情の暗い私をみると笑わせようと気を遣ってくれたり、また、サボってるスタッフたちをみても、「もーう、君たちはいっつも休んでばっかり!」と笑いながら言っている…

たぶんそうとう懐が大きく人徳のある看護長。私が何かを質問しても答えもまっとうであり、人を動かすのも上手で看護長としてのスキルの高く、私は尊敬をしている。

そんな看護長は、上記の話を私にしながらも、面白おかしくジェスチャーを交えて話すことで、周りにいたスタッフは会話の内容を聞いてシリアスになるどころか大笑いしていた。でも、その会話から看護長が今まで苦しみながら働いてきたのがとてもよくわかり、看護長がふざけてヘラヘラしてるぶん、ことさら私の心は沈んだ。

 

たぶん私は、この国の核になる問題が表在化したところを、ちょうど見ることができたのだろう。

あーだから途上国なんよ。結局、何も変えられん。やっぱり私が2年間でできることは上辺だけをさらーっとなでて整えたフリをすることくらい。そんなことはモロッコに来る前からちゃんとわかっとる。

私はすべての根本は教育だからそこを変えない限り、私ひとり病院に行ったところで何も変わらないと始めからわかっていた。そもそもそんなに大きなことがしたいとかできるなんて全く思っていなかったし、今もそんなことは全く望まない。

でも、実際に目の前にいる人々には、生きた感情があり、彼らは苦しんだり笑ったり祈ったりしている。

私は彼らと毎日おはよう、元気?と顔を合わせて過ごしている。一緒に笑うし一緒に悲しんだりもする。

そうなると、そう簡単には引き下がれなくなってしまう。泣いても笑っても2年間だけという期間限定である分モロッコ人同士よりもしがらみがなく、良くも悪くも色々言いやすい立場にいる。でも、ここは引き下がらないとドツボにはまってしまう自分の姿も見える。

 

経営を担っている病院のディレクターの顔さえ知らない私。そもそも、勤務中に病棟から外に出ることさえ許してもらえない私。

勤務外にこっそり院内を周ったらどうなるのか…モロッコに3か月住んでいる私には、そのあとどのような事態になるのか多少想像がつくため、実行できずにいる。

 

根深すぎる。日本人に訴えかけるのとはわけが違う。日本の方法では難しいのかもしれない。いや、でも、試す価値はあるのかもしれない。

 

どうしたら、自分の欲を捨てて、人のために正しいことができるようになるのだろうか。どうしたら、同じ目標に向かって、自己の立場だけでなく全体のことを考えて自己を多少犠牲に協力し全体が一丸となることができるのだろうか。

ロッコ人はもともと協調性とか共同作業とか…学校でも指導されたり考えたりしたことがないから、どうしたものか。

 

そんな簡単に問題を解決できないから途上国なのである。でも、どうしたら?と考えるだけでもきっと意味はあるし、もしかすると、いつかそれが役立つ日がくるかもしれない。きっと意味のあることだろう。

それに、「どうして、モロッコはこうなんだろう。」と考えること自体を楽しめるようになった。私には余力がでてきたよう。

2年後は、日本に帰りたくないと泣いているだろう。

 

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これはサボテンの実?!というらしい。フランス語で「これ何?これ何?」って聞いてたら、一つ皮を剥いて渡してくれた、もしかするとこれは味見させてくれるのか?と思いきや、しっかりと10円請求されました。ちょっとこれ1つ10円なんて兄ちゃん高いよ…。「めちゃくちゃ高い!」と今度は確実に通じるようにアラビア語で言い返すと、「もう一つ食べるか」とアラビア語で言われた。めちゃくちゃ美味しかったけど、悔しいから食べなかった。人は強くなるものだ…

でも、高くて悔しいからもう一つ食べないなんて、人間ができていない人間で情けないし、申し訳ない。町で見るたびに苦い思い出がよみがえる。

 

続く。

考古学博物館

 

先日、事務所のスタッフとたわいもない話をしている中で、そろそろ任国外の旅行とかの計画とか立てないんですか?と聞かれた。まだ、私、この国の首都しか知らないのに外国に行くなんて考えもしなかった…活動のことしか考えていなくて視野が狭くなっているなと反省。その日の夜に「地球の歩きかた~モロッコ~」をひらいてパラパラめくってみる。

歴史に詳しい人に教えてもらった話によると、モロッコにはたくさんの遺跡がある。しかも古代ローマ時代のものがイスラム圏であったために、破壊されることなく残されているのだそう。ヨーロッパはまた事情が変わってくるとのこと。

観光地や都会は別に旅行でも行ける。せっかくこの2年間で行くなら住んでなくては行けないところや、つてがいないと行けないところに行きたい。いや、そもそも今住んでいる首都自体もまだ行ってみたいところがあるなと、首都の観光案内ページを開いていると「ラバト考古学博物館」という場所があることを知った。しかも、ペラペラページをめくって、「ここの遺跡いってみた~い♡」と思っていたところから出土した品物も展示されているとのこと。しかも入館料はたった100円。期待できないかもしれないけど、気軽に行けるし、これはもういくしかない。

早速、場所を調べながら行ってみた。お客さんはまばらで少なかったが、100円にしてはなかなか見ごたえがあり楽しかった。紀元前の人たちが、何を想いこれを作ったんだろう、どんな思いを込めたんだろうと勝手に考えながらみてまわった。結局、人間はいつの時代も変わらないんだなと思う。ダメもとで聞いてみたら、フラッシュさえ使用しなければ写真撮影が可能であると。一眼を家に置いてきてしまったことは残念であったが、携帯で沢山写真を撮らせてもらった。アジア人がくるのが珍しいのか、私が展示物を見てテンションが上がり過ぎているのをみて嬉しかったのか、こいつ写真撮りすぎだなと思われていたのか…理由はわからないが、途中から警備員さんがフランス語で解説してくれた。ありがたい。モロッコの地図の中からどの地域からどのようなものがでているのかをデジタル表示したようなものまであり、丁寧にその使い方までレクチャーしてくれた。館内にいい感じの景色の写真を見つけ、「それはどこの遺跡だ」と聞くと、なんと「ラバトだ。タクシーで5分で着くぜ!」と守衛さんが教えてくれた。お腹がすいたので、遺跡への梯子はせずに引き上げてしまったが、また今度気が向いたら行ってみよう。

贅沢な休日であった。明日からまた働こう。

 

館内で撮影した中から少しピックアップして。

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ワンちゃん。警備員さんの解説によると口から水を出していたらしい…

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ロッコらしい色合いとデザイン

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よくみると

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落ちとるやん。さすがモロッコ

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これをみたら、人間って変わらないんだなと思った。

 

 

つづく。