番外編・ブログ名が「なみのり」のアツすぎる理由

あんふぃるみえーるは、フランス語で看護師の意味。単純に、私が看護師だから。

なみのりの理由は、ただ単にウィンドサーフィンが好きだから。中でもウェイブコンディション「波乗り」が好きだから。

今回は全くモロッコには関係のない番外編。

我儘ながら、ただの自分の満足のためだけにこの記事は存在しています。ウェットスーツを日本においてモロッコにきた私は、恐らく今世界中の誰よりもウィンドサーフィンを求めています。

以下、愛してやまないウィンドサーフィンへの熱い想いが続きます。覚悟してご覧ください。

 

 

ウィンドサーフィン(Windsurfing)とは、セイルボード(以降、略してボード)とセイルを接続した専用の道具を使用して、風を受けたセイルに発生する揚力と重力により波の斜面を滑り降りる推進力を主な動力源として水面を滑走するウォータースポーツである。ヨットとサーフィンを融合・発展させたスポーツである。ウィンドサーフィンをする人のことをウィンドサーファー(Windsurfer)という

-Wikipediaより引用-

 

ウィンドサーフィン。それは、日本では良くも悪くもマイナーなスポーツ。

『LIFE~天国で君に会えたら~』という実在したウィンドサーファーの話の映画が上映されたときに少しはやったそうです。あと、バブルにも流行ったそう。サーフィンと聞いて世間では、ショートボードやロングボードのサーフィンが有名であり、ウィンドサーフィンを知らない人ももちろんいます。厳密には、私はサーファーではなくウィンドサーファーなのです。ウィンドサーファーの中には、ショートボードとウィンドサーフィンを並行して行う方も中にはいますが、ウィンドサーファーの多くは、サーファーと混同されることを比較的嫌う傾向がある気がします。もちろん、私の主観にすぎません。そして、サーファーとウィンドサーファーの違いは、私にとって、海外で中国人と間違えられた時の感情とよく似てる気がします。きっとどちらもプライドの問題だからなのでしょう。

ウィンドサーファーはウィンドをすることに誇りを持っているし、風とともに生きていると言っても過言ではありません。サラリーマンは、コンディションのよい『風がある』平日に、「風邪があるから」と寒いギャグをかまして会社を休んで逗子の海に出勤していることも、しばしば。私は仕事柄そんなことはできませんでした。

 

なぜこんなにもウィンドサーフィンがウィンドサーファーを魅了するのか。

自分にとってのウィンドサーフィンの魅力を紐解いてみます。

 

・私とウィンドサーフィンとの出会い。

6年ほど前の12月。たまたま友人に誘われて、どんなものだか知らないまま、とりあえず、逗子のウィンドサーフィンのスクールに行きました。真冬の12月に海に入るなんで、普通の人は考えないでしょう。その日は幸運にも日差しが温かく、ウェットスーツを着ていると全然寒さを感じないほどで、非常に良いコンディションでした。だからこそ続けられたのかもしれません。

海の上に立ち、風を感じながら、海面をすすんだ時、なんて気持ちいいんだ~と感動し、終わってから浜で見た夕焼けにまた感動。日々狭い職場の中で狭い人間関係に悩まされ、ストレスフルで働いていた私には、この非日常がとても気持ち良かった。そして、病みつきになったのです。とにかくもう一回やりたい。せっかく一度きりの人生だしやりたいことはやりたいときにやろうと決心し、できる限り続けることにしました。

ウィンドサーフィンの原理として、風をセイルに受けて、風の力を動力にして、ボードを動かします。そのため、風向きと風速はもちろんのこと、海岸の向きや潮の流れ、波の向きや大きさ雲の流れから風をよんだり、コンディションを常に観察しながら全身を使って両手両足をバラバラに動かしながら進みます。ある人がいうには、世界一難しいスポーツだそうです。確かに、上達するなかで、うまくいかなくて悔しい経験もたくさんした、それだけに次のステップに上がれた時は毎回とても嬉しかった。はまる人にはとことんはハマるスポーツのようです。

 

・仲間との出会い。

ウィンドサーフィンをやってよかったと思うことは、沢山の仲間ができたこと。それも、老若男女、職種を問わず20代から60代までの友達ができた。一般社会では、自分よりもこれほど年齢の離れた人と知り合えても友達にはなれない。でも、スポーツを通して、フラットな友達として付き合えるのです。人生において大切なことを彼らと付き合うことで沢山学びました。これはほかの環境において、なかなか簡単にできないことではないでしょうか。仲間たちが、遠くに移住しても、彼らに会いに一緒に海に出るために遊びに行くこともできます。私の人生において財産となっています。また、初めて海で出会った人でも、ウィンドサーフィンを通していくらでも語り合うことができます。一人で海に出ることももちろんできますが、やはり仲間と一緒に同じ海に出ることで、楽しさや喜びを分かち合うことが幸せなのです。そして、終わってからの一杯が何よりも美味しいのです。

 

・たくさんのゲレンデがある。

本来、水面と風と道具さえあればできるスポーツ。ある程度のスキルが身についたら、風の強さや波の状態・波の角度などを考慮して、その都度ゲレンデを移動して好きなところで行うことができます。慣れない場所で行うことで危険も伴うのでその場所の注意事項などはしっかりと認識しておく必要があります。冬の西高東低の天気図が決まると、とても風が強くなります。その他、波の状態を予測して、静岡の御前崎まではるばる遠征したりもしました。御前崎での経験はとても大きく、まるで川のように潮の流れが速いため、何度か流されかけたことも。3時間海に出ていて、ほとんどの時間が海に流されているのに、たった1回成功して波に乗れただけで、その日はもう満足できるのです。だぶん、普通の人には理解不能なのだと思います。

また、ウィンドトリップとして、沖縄方面にウィンド旅行したり、日本を飛び出して、サイパンやメキシコにも遠征しました。そうするとまた、現地で現地にいるウィンドサーファーとも出会えて、色々話したりするととても楽しい。そもそもウィンドをきっかけにした海外旅行の経験から海外へ目が向くようになったのもひとつの要因でした。f:id:kei-iinuma:20170701052743j:plain

メキシコで見た、忘れられないオレンジ色の空。

 

・自然を感じる。

ただのスポーツではなく自然の中で行うスポーツであるため、リラクゼーションとなり、海にでるだけでとにかく癒される。日頃の疲れが吹っ飛ぶのである。波の音、風の音、雲の動き、日差し、海中には魚たちが泳いでいたり、ただ海面をプカプカしているだけで気持ちよく心が穏やかになります。たま、普段眺めることのできない沖から浜を見ることもできたりする。似たようなコンディションも似たような波もあるけど、同じ波と同じシチュエーションは二度とない。だからこそ、何回海に出たとしてもいつだってウィンドサーフィンする時間がとても愛しくなるのでしょう。

 

・海と対峙することで自分自身をコントロールする。

もちろんのことウィンドの技術も然りですが、刻々と変わるコンディションに合わせて、自分がどのような道具で海に出るのか(大体の人は何種類か道具を持っていて、コンディションに合わせて使い分けています)。また、いつでもどこでもできるわけではなく、自分の技術を正確にみつめ、ほかの人が楽しそうに海に出ていたとしても、自分にとっては危険なこともあります。そのときは海に出たい気持ちをぐっとこらえて自制する必要があります。挑戦と無茶をはき違えないようにといつもインストラクターの先生方に指導を受けていました。また、海の上で一回技に失敗したり、失敗が続いた後に、いかにして自分の悔しさを封じ込み冷静に自分を立て直すことができるか、という自己コントロールも大きな技術の一つであります。また、状況によっては、これ以上失敗したら潮に流されて危険だというシチュエーションもあります。そのようなとき、いかにして失敗せずに安全なエリアに帰ってくるかという勝負強さも知らない間に培われました。また、楽しいからといって、ずっと海に出ていると知らない間に疲労し思わぬ事故を生むこともあります。もう少しできる、もう少し海に出てたい…というところで上がらないと、一瞬の気のゆるみで失敗して道具を壊してしまったり、自分自身がけがをしたりすることになります。そのような自分自身を客観的に冷静に見極めることも非常に大切です。

 

※一般的にインストラクターの指示のもと、ウィンドサーフィンを行っていたら、危険な目にあうことはまずありません。私は、ウェイブコンディションが好きなため多少危険になりそうなこともあっただけです。なぜならなみのりあんふぃるみえーるだから…。

 

  

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日本においてきた私の大事な道具のセット。

ウィンドサーフィンで得た経験は、今の自分に間違いなく糧になっているはず。

以上、番外編終了。

 

続く。

母乳

 

ラマダーン中のある日。

生後間もなく緊急入院した赤ちゃんが一人いた。呼吸状態も悪く感染症もあり非常に具合が悪い状態であった。希望があれば母親が付き添うことができるので、産後間もない母であったが付き添っていた。母は体調が悪いにも関わらず、子どものモニターに常に緊張し、神経が過敏になり情緒不安定で落ち着かない様子であった。前日の夜から入院したそうだが、今はラマダーン中。母は水だけは確保していたが、昼間になってもどこにも食べ物が売っていない。そのため温かいスープが飲みたいと、ややパニック状態となっている。医療者をみつけては詰め寄って「助けてくれ、助けてくれ」と言っていたが、みんな忙しいからと邪険にあしらう。

どうしてこんなにパニックになっているのだろうと思い、よくよく母に話を聞くと、母乳のでが悪く、こどもに母乳があげられず困っていたよう。母と一緒に搾乳するが、やはりおっぱいはカラカラで出てこない。家族の人に電話するが応答がなく買い物を頼むにも頼めず、母は絶望し号泣していた。これはやるしかないと思い、「私が代わりに買い物してきてもいい?」と主治医に聞くと、ありがとう仕方ないから買ってきてほしいと言われた。母から日本円にして500円を託され、外出の準備をし、出発前に師長に報告すると、なんてこった。

「だめだめ、なんてこと!そんなの看護師の仕事ではない。家族にやらせなさい。家族がだめなら、粉ミルクを飲ませればいいでしょ。今日、君は病棟のここの区域から出ないで働きなさい。」と怒られてしまった。非常に悔しいが仕方ない。母に謝り500円を返却し、主治医に行けなかったと伝えると無言で頷いて私の肩に手を置いた。

私は看護師である以前に一人の人間である。外国人の私にできることは限られるが、お店で買い物をしてくることで、母の母乳が出るようになり、母自身の精神が安定するならそんなに容易いケアはない。しかし、きっちり分業で縦割り社会のモロッコではそんなことは通用しなかった。仕方ないことはたくさんある。

私は、仕事において困り悩んだ時に、どうすれば赤ちゃんと家族のためになるかを考える。そうすると必然的に新人時代にお世話になった大先輩の顔を思い浮かぶ。そして、彼女だったらなんていうだろうかと考える。もし、そのシチュエーションで私が彼女に相談したら恐らく「仕方ない、お前がそう考えるなら行ってこい!」と送り出してくれただろう。私にとって看護の母のような人である。

日本で勤めていたころ、退院のめどのたたない患者の家族が、お食い初めをしたいと言ってきたことがあった。当たり前だが、そんな我儘を一人聞いたら、ほかの家族も我儘を言い出すし大変なことになると大反対される。本人に食べさせないにしても、食べ物を病棟に持ち込むなんて衛生管理、感染管理上、厳禁である。個室を使用する、時間を決める、ほかの家族には絶対に知られないようにする、私の出勤日に行うなどの措置をとり、上司を説得するとあきれられた。周りの同僚にも相当あきれられ、当然私を白い目でみた。看護師は医療ケアを行うために仕事をしている。ただでさえ忙しいのに、もしそんなことをしている間にほかの患者が具合を悪くしたらどうするんだと。その意見はとてもよくわかる。でも、その子と家族にとって一生に一度のイベントであるからどうしても行ってあげたいと訴え、なんとか上司の許可をとりつけた。

しかし、予定をたてた当日の朝、出勤すると子どもがいない。夜間に不整脈を出して集中治療室へ移動し結果としてお食い初めはできなかった。それで良かったのかもしれないし、悪かったのかもしれない。その子はしばらくして元気になり病棟に帰ってきた。病棟内では「お食い初め事件」としてたまにスタッフに思い出されており、病棟内で話のネタとしてたまに使われているらしい。その話を聞いた新人が「そんな先輩がいたんだ、その人よりも私のほうがまだましだ」と、辛い新人時代を乗り切れるなら、私にとってはありがたい限り。私は新人時代、先輩たちに怒られない日は無かったし、仕事をこなす容量も悪く、非常に足手まといで迷惑ばかりかけた。それでも見放すことなく面倒を見てくれて、いまだに私の話をする先輩たちのことを思うと、それなりに私は愛されていたのかもしれない。

日本で担当した子どもたちは、元気にしているだろうか。歩いてるかな、しゃべっているかなと、大きくなった姿を勝手に想像してみる。小児看護独特の感覚だが、誰のことも出産していないが、私にとってはみんな可愛い我が子。重症だった子はもうずいぶん亡くなってしまった。看護師歴8年目の私は、新人の時に小さい赤ちゃんだった子がランドセルを背負った小2になっている。お母さんも新米ママが肝っ玉母さんになっている。子どもたちと一緒に私も沢山勉強させていただいた。

 

提案したり何かを訴えても、現実はそう簡単に物事が進まないし、変わらない。

それでもきっと何もしないよりはいいはずだとポジティブに考えてみる。

 

ラマダーン中の朝食(イフトール)をレストランで頼むとこんな感じです。

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続く。

ラマダーン<続報>

ラマダーンが始まり雰囲気は、お祭りのようでもあり厳かでもあり、楽しそうでもあり、空腹にぐったりでもある。毎日朝方3時頃のアザーン(お知らせ)の前までに必死で最後のご飯を食べ、20時前になるアザーンを聞いてぐったりしながら朝食にありついている。2か月ほど学校も休みになるようで子どもたちは夜遅くまで外でサッカーをしたりして遊んでいる。でも子どもは基本的には断食(サイマ)を免除されるため、昼間も元気である。しかし、小さいころから部分的に断食をしたり数日間断食したりして、達成感やムスリムである自覚を強めたりするそうだ。妊婦も体調が悪くなければ断食をすると聞く。私は正直そんなことしたら胎児の発達によくないから辞めてくれと内心思うが、ここでは断食をすることのほうが大切だと受け入れられている。週末の夜遅くまでみんな外で楽しそうにしている。治安の関係で外で夜遊びできないが、窓から見える外にいる人たちは楽しそう。例のごとくサッカー観戦もアツい。日没後のため食事を終えて元気になったモロッカンの歓声が元気なことといったらない。誰もお酒を飲んでいないのに、よくそこまでテンションあげられるなと感心。

 

イスラム教はもともと他の宗教も受け止めるし、中東地域全体として誰でも来た人は歓迎してもてなすという文化が古くから根付いている。職場のメンバーも、ラマダーン中でも君はムスリムでないから職場の休憩室でご飯を食べていいよ。ここでは君のことをわかっている。でも、外で食べるのはよく思われないからやめた方がいいと気遣って言ってくれた。有り難い。

ラマダーンの初日は、みんな辛いようで、こいつご飯食べてるからこんなニコニコしやがって~という無言の怒りにも似た眼差しを向けられることもちらほら…(そのときから私も食べていなかったが、彼らは知らない)

 次第に、断食をしているということで親しみを抱いてくれるようで、以前は冷たく鼻であしらわれた女医さんたちも「辛いわね、今日、何時から食べていいかわかる?」などと話しかけてくれるようになったりした。日没の時間は毎日だいたい1分程度ずつずれていく。私は5日間だけ断食(サイマ)を頑張ったが、どうしても脱水による頭痛と倦怠感が強く、これ以上続けたらいつか血栓ができてどっかに飛んで倒れるかもしれないと危機を感じ、辞めた。私は異国で孤独死したくはない。来年こそは、ラマダン開始前に練習を重ねリベンジしたい。 

 

断食中には、「君はムスリムなのか?」「ムスリムでないのに、どうして断食するんだ?」「君はムスリムになりたいのか?」「お祈りのしかたを教えてあげるよ、一緒に祈ろう!」などとの勧誘?と思しき声掛けも多くなった。

周りの人には「モロッコにいる間は病院だけでなく、モロッコの文化やイスラム教についても学びたい!だから、断食にも挑戦したんだ。私はイスラム教をリスペクトするがムスリムにはならない。」と伝えるが、私の気持ちは彼らにはあまり理解できないようで、何故ムスリムになりたいわけでもないのに、苦しんでまで断食をするのかと相当クレイジーかつ奇妙をうつるようだ。しかし、そのうちにムスリムへの勧誘は言われなくなった。

 今日はラマダーン最後の金曜日、信じられないほどの人がモスクに向かっていた。入りきれず外でお祈りしている人もいた。

アッラーの教えに服従し、何が起こっても神が決めたことだからと納得できるのは、苦しみが少なくて楽な生き方なのだろう。それはとても理解できる。これは私にとって大きな変化であり、以前はそんな風に考えられなかった。たった2か月でも暮らすことでイスラム教やムスリムへの理解が変わってくるのだと実感する。

多くの人は、親からコーランを教えられ、生まれたときからムスリムであり、ムスリムであることに誇りを持っている。多くの人はムスリムの立場からしかイスラム教を理解していないだろうし、ほかの宗教に関して知ろうとする姿勢もないだろうから、コーランに書いてあることくらいしか知らないのだろう。

ムスリムの人たちはみんなとても素敵だし、コーランの教えを重んじて生きていく彼らをとてもリスペクトする…でも思うことはある…

モロッコのモロッコらしさを存分に感じ、イスラム教についてたっぷりと考え学びぬいた1か月が終わろうとしている。終わると1週間お祭りがあるそうだ。

 そして日ごとに暑くなっている。もうすぐ夏が来る。知らぬ間に季節が一つ進もうとしている。

 

続く。

10年

首都でのオリエンテーションがあったため、地方に派遣されていた同期隊員たちが首都に帰ってきて、先輩隊員たちも集まり日本人にまみれた3日間であった。

地方に派遣された隊員たち曰く、首都の気候は気温も過ごしやすく、モロッカンも他の地方より外国人に親切で品のある?お行儀のよい?らしい。みんなが首都配属の私を羨ましがる。確かに、町の中で困っていると誰かしらフランス語や英語で話しかけてくれる。地方では、外国人というだけですうきの眼差しを受けることもあるそうで、イスラム圏独特の雰囲気がより強くなるらしい。

近頃の悩みと言えば、仕事をどれくらい頑張ればいいのかわからない。何が正しいのかもよくわからない。全てにおいて正解はない。スケジュール管理から、職場とのやり取り、基本的には全てを自分で管理していく。勿論、事務所も助言やアドバイスなどをくれるが、彼らはもともと医療職種での派遣ではないため限界もある。活動内容や活動場所によりそれぞれ千差万別。だから仕事に対して悩みがあったとしても、一概に同じ職種の先輩に相談すればいいというわけにもいかず、先輩の話を聞きたいときもあれば、正直何も聞きたくないと思う時もある。

そんな悶々とした生活の中、2年間の任期を満了し帰国される隊員たちの活動報告会があった。 それぞれの任地でそれぞれの苦悩と苦労を抱えて2年の活動を終えて日本に帰っていくようだ。誰の口からも聞かれた共通の言葉として「2年間はあっという間であった。」「1年目と2年目は全然違った。」「モロッコにはまたいつか帰ってきたい。」「感謝する。」とのことであった。

私自身はまだ2か月しか経っておらず、帰国まであと何日と毎日カウントダウンしながら生活している。あっという間だなんてとても信じられない。2年間が終わればよかったと思うのか、またはよかったと思わないと苦しみが報われないから無意識に美化されてしまうのだろうか。2年かけて、ボランティアの活動と心理的変化について自分を客観的に洞察していきたい。

報告会の話を聞いて、今まで自分の認識が間違っていたことに気が付いた。外国人の看護師が一人入ったところで病院はそう簡単に変わらないということはよくわかっていたが、それでも、私は2年間で何ができるのか?どうしたらモロッカンの考え方や行動が変わるだろうか?と必死に考えていた。仕事ではないけれどもそれなりの責任をもって活動を行っていきたいし、何かしらの成果を残さないといけない気がしていた。でも報告会の話を聞いて2年間では無理であることがよく理解できたので、成果主義の呪縛から解放されて楽になれた。

そこに至るに一人の先輩隊員の報告があった。母子保健分野で一つの任地に10年間代々隊員が活動を展開し、ようやく形となったため今回でそこでのボランティアは最後となり、これからはモロッカンだけで活動を行っていくとのこと。その先輩隊員は報告の中でしきりに、今までの先輩隊員が作り上げてきたモロッカンとの関係や痕跡を日々感じて活動を行ってきたと言っていた。母子保健分野にはJICAの専門家と保健省で一緒にプロジェクトをくみ活動を行ってきた。10年かけてやっと形になるのだ。

私の活動場所は初代先輩隊員が活動し、今年で2代目で3年目。しかも専門家は日本へ帰ってしまっている。10年というスパンで考えると、まだモロッカンと日本人という関係を作っていく時期であり、私は犠牲バントを打つ役割であろう。長いスパンにおける自分の役割が明確に理解できたら少しやりやすくなる気がする。現場には、やる気のある学生も若い看護師もいる。大きなことはできないけれども、せめてモロッカンが日本人を受け入れられるように、次に繋げられるように。

 

10年後、20年後、今いる若者たちが、ベテランになったときに少しでも質の高いケアを赤ちゃんと家族に提供できるモロッコをイメージしてみる。

そのために何が必要か自分に何ができるのか考えてみる。

 

 

とある日に食べたクスクス。ラマダーン中は、昼ご飯食べられないため、クスクスが食べられない。レストランは夜までクローズなのである。もちろん需要がないから。気が付けば、もう1か月もクスクスを食べていないではないか‼

切実にクスクスが食べたい…クスクス…クスクス…

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続く。

人に向けて言う言葉は、自分に返ってくると思っており、私はどんな相手に対しても感謝や好意の表現を怠らないよう気を付けようと思っている。

仕事中はなおのこと200%の努力でニコニコして「あなたのここが素敵ね!」「その服可愛いわ!」「あなたはとても親切なのね!」「なんて優しいの!ありがとう」「クスクスが大好きなの!だから金曜日が大好きなの!」「断食なのにみんな働いて素晴らしいわ!」などなど。日本人はモロッカンよりも表情も少なく、ボディランゲージも少ないため意識して伝えるように努めている。

そうすると初めは不審の眼差しで私をみていたスタッフも「おはよ」と言ってくれるようになったりもする。そして、おしゃべりなモロッカン、私の噂話もたくさんしていることだろう。有難いことに、いいことも人に話してくれるらしい。自分が直接話してない人も、恐らく噂によりいい印象を持ってくれて知らない間に挨拶を返してくれるようになったりもする。

 

私が200%の努力をするのには理由がある。

日本を発つ前に前任のベテラン先輩には何度か連絡をとらせていただき、職場の現状からモロッコでの生活、日本からの持ち物など些細な質問にも丁寧にかつ事細かにお答えくださり、大変お世話になった。私は刺激的すぎるモロッコの病院の現状を耳にして、ショックを隠しきれず電話越しに「2年もやっていける気がしません」と不安を吐露したことを覚えている。彼女は、「厳しかったら任地替えもありだと思う。無理してまでこだわってとどまる必要はない…」というようなアドバイスくださった。今も彼女の言葉がどれだけ私を支え助けられているかは計り知れない。無理しなくていい、いざとなったら任地を変えてもらうよう交渉すればいいと思えるだけでとても楽になる。

モロッコはライフラインはそろっているし、ほとんど日本と同じようなものを買うことができる国である。言葉の壁もあるだろうけど、そんなのどこの国にいったって多かれ少なかれあるだろうが、言いたいことを言えないからってストレスためたって仕方ないではないかと、いい意味で始めから諦めていた。焦ったって仕方ないし、そんなことでストレスをためるくらいなら、単語ひとつだって覚えればいいし、任地の人と一言でも多くコミュニケーションをとればいいと。そもそも言葉なんてただのツールのひとつにすぎない。コミュニケーションのうちたった数%しか受け取られていない。看護学校で多くの看護師は習ったであろう、そしてコミュニケーションスキルを学んだ人は大体知っているであろうメラビアンの法則

この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについてを扱う実験である。感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。この割合から「7-38-55のルール」とも言われる。「言語情報=Verbal」「聴覚情報=Vocal」「視覚情報=Visual」の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。Wikipediaより。

 

結局のところ、ほとんどは表情、態度、仕草、などの非言語コミュニケーションの方が大切。メラビアンを思い出すとフランス語が伸び悩んでいる自分への悪い言い訳になり悪い意味で自分を納得させているが、電話がかかってくる度にドキッとして、フランス語勉強しないかんと反省する日々。

 

モロッコに到着してから初めて配属先の病院に挨拶に行く車の中で、事務所のスタッフが言いにくそうに「ここの病院はなかなか前任も苦労して、活動が上手くいかなかったんです…この国では医療と教育に私たちは力を入れて活動しているがなかなかどちらもうまく行かなくて…」と言っていた。正直、前任からの事前情報も聞いていたからわかっていたが、どうしてそんなところにわざわざ私は連れてこられたんだと正直憤りを感じた。病院スタッフが前任の活動を受け入れなかったのに、どうしてわざわざ私がまた同じ場所で活動をするのだ、地球全部を真剣に探せば、もっと日本の小児看護を取り入れたいと熱心に思っている地域や病院は絶対にあるはずだ。でも現在、配属されて1か月経ち色々なシチュエーションを見たり、スタッフのキャラクターもずいぶんわかってきたから、どうして日本人が必要なのかよくわかるし、どうして私がここに選ばれたのかとてもよくわかる。そして、私には人に誇れる技術や知識経験があるわけではない。ただのしがない看護師であるが、唯一自慢できるかもしれないことに、どんな人のことも心から受け入れて認めることができるという特技がある。

日本の病院だってそうだった。もっとここを変えたらいいのに、こうしたほうが楽なのに、と思うことが沢山あるが変わらない。どうしてこんなやりかたなんだと聞くと「ずっとこうしてるから。こういうルールだから」という非科学的な返事を得て愕然としたこともあった。その頃はつい自分自身が熱くなってしまい、感情を強く出して伝えたことで、相手とぶつかり今となっては反省すべきエピソードの1つでもあった。そのエピソードから学んだことは、正しいことを正しいと言っても、そう簡単に病院の上層部の人間が聞く耳を持ってはくれない場所なんだと理解した。モロッコも一緒である、いやモロッコのほうがその色は濃いかもしれない。病院とは院長を筆頭に縦の階級があり、どんな時でも上の人の言葉が正しい。

ここ1か月看護長との関係でずいぶん頭を悩ませ、あの手この手でアプローチしてみたがなかなかうまく行かなかった。彼女とは絶対にうまくやっていきたいと思い、ずいぶん必死で考えていたが自力では難しく、その悩みを友人に相談したらすぐに解決した。結局のところ、彼女は私を恐れ排除しようと躍起になっていたようだ。私は、彼女がそんなことを考えているなんてちっとも考えなかった。彼女自身の看護スキルについて認めて、尊敬の意を伝えたら、その後まるっきり態度が変わった。アドバイスをくれた友人に感謝。自分自身で気づけなかったふがいなさも多少はあるが、それ以上に上手に人に頼ることが苦手な私にとって活動をこれから進めるにあたり大切な経験をしたと思う。周りに積極的に意見を求めていくことでいろんなことが見えてくる。そして良好な人間関係を深めることでこんなにも状況が変わるのかと実感した。

 

研修所時代に仲間の子が言っていた。笑顔でいることがどれだけ大切なことかというエピソードを思い出した。今は一人でも多く自分の仲間を増やす必要がある。しばらくは200%でやってみようと思う。院内でユニホームに着替えたら、まずは鏡で自分の顔を見て200%の笑顔を作ってから病棟へ。

 

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この国はなぜかネコがとても多いのだが、私は子どものころからネコが苦手だ。

 

 

続く。 

お金の話

モロッコでは、ディラハム(dh)という単位の通貨が使われている。

便宜上1dh(=10円程度)と換算して生活をしている。細かく計算するともう少しレートは異なるけれども。私の金銭感覚として、50dh以上は少し高いな…月に何度もないが100dh以上の時は相当気合を入れてお金を払うという具合になっている。日本よりも物価が安いためモロッコでは一食500円も払えばだいぶゴージャスな食事が頂ける。到着してから数週間はこの値段でこんなに沢山のご飯が食べられるなんて最高だ!!と思った。しかし、物価が安い分生活支給費も少ないため、ある程度切り詰めて生活していく必要がある。今となっては一食200円出すのも高いな…と思うようになった。必然的に自炊をするようになり、今となっては料理することが楽しくなっている今日この頃。もともと日本で仕事をしていたころは頻繁にお酒を飲みに行っていたため外食ばかりだった分、新たな趣味が料理となり新鮮である。料理についてはまたの機会に。

ここでは、野菜もフルーツもお肉もほとんど加工品以外の食料は、dh/kgで売っており、お客さんが物を選んでから軽量し、その値段が決まる。自分自身で食材を手に取り、触れて匂いを嗅いで見て鮮度を確認してから購入する。勿論、ジャガイモやネギはまだ土まみれ。食料の買い物はモロッコではとても楽しい。

大概のものが日本よりも安いこの国で、日本と比較してモロッコのほうが高いものが稀にある。コレがこの値段?と驚くものには私の中で共通点がある。

とても単純で、日本の100円ショップに売っているものはだいたい日本のほうが安いことが多い。日本じゃこんなにお金払わなくても買えるのに、泣く泣く現地購入ものは、ノート、調理用まな板であった。私の中でまな板は本当に贅沢品だ。料理のモチベーションを上げるべく買った。そのぶんマスカラのお化粧をしばらくお休みすることで自分の中で折り合いをつけた。実に日本の100円ショップは本当に偉大である。出国前に色々と買いだしで大変お世話になったものだ。

 

青年海外協力隊の精神として、「現地の人々と生活を共にしながら活動を行うことで…」という決まり文句があり、なるべく現地の人々と生活を共にしながら活動を行うことで友好親善を図るという狙いがある。

また一方では、安全対策という名目で生活する家は頑丈な物件を借りるようにとあれこれ細かい指示が入る。そのような指示はここだけなのかよくわからないが、実際に私は首都の中の比較的お金持ちの人が住む地域のアパートと借りている。日本でいう銀座か表参道辺りにあたるだろうか…実際に事務所の人は、あるストリートを銀座通りと呼んでいた。日本では絶対に住めないし、住みたいとは思わないだろう。実際に今まで私が住んだどの家よりも豪華で広い家に住んでいる。

ここに矛盾と葛藤がうまれる。

そのため、国籍は?名前は?の次に聞かれる常套句の「どこに住んでるの?」という質問に住んでいる地域を答えると大体の人は「あ~そうなのね~(やっぱり外国人はお金持ちなのね…)」という偏見と蔑んだ視線の返事を頂くこととなる。とても気分が悪いので「事務所がセキュリティの関係でそこに住めと言われているんだ!」と伝えるとそんなに悪い顔をされないということを最近学んだ。私だってもっと庶民派のモロッコの家に住みたかった。でも、セキュリティと職場の位置関係を考慮すると残念ながら致し方なかった。日本に住んでいた時は、独り身だし家ではお風呂に入って寝るくらいしか時間を過ごさないため、自分の荷物が安全に保管できて最低限の生活できればよいという境地に至り、某沿線の小さくとても年季の入ったアパートを3万3千円という家賃で借りて暮らしていた。そんな私は、モロッカンにお金持ちで鼻にかけていると思われたくない。でも、もしかすると実際に私はお金持ちの外国人なのかもしれない。

例え何年モロッコに暮らしたとしても私の顔はアジア人だし、永遠に外国人。そして、どんなにモロッコを愛したとしても、お金に困っている人にとっては、お金巻き上げるためのカモとして犯罪のターゲットに大抜擢される可能性を秘めているのだ。

たぶんほかの地域で奮闘している仲間の隊員たちも多かれ少なかれ私と同じような悩みを抱えているのだろう。きっと二年間この悩みは尽きないだろう。

 

話は変わるが、道端にはよく小さい子どもを連れた親子や障がい者、年配者の方が、「お金を下さい」と、いわゆる物乞いをしている。でも、彼らは夜になるとどこかへ消えていく。そして、朝になるとどこからか現れて店支度をしている。どうやら彼らはどこからか出勤しどこかへ帰宅している。お家はあるが定職がないのだろう。彼らは外国人である私に対してアラビア語で「1dhくれないか?」と言ってくる。多くのモロッカンは外国人に初めフランス語で話しかけるが、彼らはフランス語を話せないことが多い。恐らく学校を中退しているのだろう。貧困が連鎖している。また、旦那さんから突然離婚を突き付けられて、シングルマザーになるケースもあるらしい。この国ではシングルマザーへの偏見も大きく、子どもを抱えた女性が仕事を見つけることは難しく、路頭に迷うことを余儀なくされる人も多いらしい。モロッカンはとにかく格好つけたがるため、お金をくれてやるのがいい男ってやつだぜ‼と言わんばかりに、スーツを着た男性などはよくお金を恵んでいる。また、コーランの中に喜捨という教えもあり、貧しい人には施しをという考えが定着している。

以前、私は物乞いがどれくらい稼いでいるのだろうと疑問に思い、物乞いが多くいる道で観察をしてみた。たまたま私が見たタイミングが良かったんだと信じたいが、10分くらいのあいだに30円程度施しを受けている人がいた。それは安いパンが2~3個買える金額である。私は驚愕して10分でその観察を辞めてしまった。真面目に働くのがばかばかしいと思ってしまいたくもなる。だからこそ定職に就くために真剣に勉強したりスキルを身につけたりしなくても、楽してお金を得られるからいいやと考えているのかもしれない。また、真偽の程はわからないが、一部の情報によると、彼らの物乞いは組織立ち行われており、元締めの人がいるとかなんとか…という話を聞いた。

私は本当にモロッコは一見観光などでも収益もあるしそれなりに発展しているように見えるけど、実際に生活していると課題が山積している国だなぁと思う。だが、先日職場の同僚の若い子に「モロッコはとてもお金のあって発展してるけど、日本はどうなの?モロッコよりもお金ないんでしょ?」と聞かれた。モロッカンの多くは他国と比較してモロッコが一番いいと思っているし、自国が他国から技術協力で援助されているということを知らない。だぶんそんなこと知らないほうが幸せなのかもしれない。私にはそのモロッカンの自信がどこから湧き出てくるのかわからないが、きっとどこかですりこまれた信念であり、またそれも文化なのだろう。

元々プライドの高いモロッカンに対して、どうやって答えたら良いのか正解が出せずずっと私は悩んでいる。

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続く。

道徳…何が正しいか?!

モロッコの小学校では一応道徳の科目があるが、教員の知識がなく道徳の授業を行うことができなかったり、勝手に他の教科に変えている現実があるらしい...

それゆえか否か不明だが、モロッカンは相手の立場にたって考えたり、背景を憶測することや見通しを立てたり、自分の非を認めて謝ったり、失敗から反省し改善策を生み出すなどの作業が苦手なように見受ける。 

 

病院内では、医療者が患者家族に横柄な態度をとることをよく目にする。先輩がふんぞり返り横柄な態度をとることにより、後輩はそれがカッコいいと思っているのではないかという個人的な疑惑もある。若手で仕事熱心、頑張り屋の医者なのに、患者の家族が医師に質問すると、医師は冷たく「だめだ」と言った。私は一部始終を聞いていたがだめな理由がわからず、赤ちゃんの健康のために家族の意見に賛同し、元々医師と少し雑談などを話せる仲であるため、医師に「どうしてダメなんだ、そのほうが健康のためによいと私は思う」と伝えてみると、少し恥ずかしそうな気まずそうな顔をして、「まあやってもいいけどでも…でもだめ」と言って去っていった。一度ダメと言った手前、医師のプライドを守るためいいよとは言えないようだ。

 

誰に対しても横柄な人もいる。家族もその横柄なスタッフに怯えている。学生を奴隷のようにあれやれこれやれと指図し、面会の家族にも大概怒鳴り散らしている。気の弱い学生はそのスタッフが怖くて質問できず恐る恐るケアしている。未来の病院を担う若者が学んでいるのに、本当に可哀想だ。ある程度ベテラン域のスタッフだからか誰もそのスタッフを咎めない。他のスタッフもそれがよくないと気づいていながら黙っている様子。恐らくその横柄な態度をとってしまうスタッフ自身も闇を抱えて苦しんでいるのだろう。心が満たされず寂しく孤独なんだろう。心の貧困。そのスタッフを助けたいと思うが2年間しかおらず外国人である私には彼女が私を受け入れることさえ難しいかもしれない。

一方ではとても人懐っこく親切で世話好きなスタッフもいる。学生に「おい。おいで!みててごらん!こうするといいんだよ!これが赤ちゃんへのケアだよ!」とあれこれ見学させて教えている人。また、ラマダーンのイフトール(日中食べられないため、日没後に頂く朝食の意)を食べに行ったときには、自分の分だけでなく同じ夜勤のメンバーに一人ずつお惣菜を配って「さあお食べ、お食べ!」と言う人。また、私の顔をみるといつも「おい!元気か!調子はどうだい?」といいニコっとしてくれるスタッフも沢山いる。突然現れ在籍たった1か月のよくわからない外国人でありムスリムでもなく言葉もいまいち通じない外国人の私に対して、彼らは親切にするのだ。勿論、外国人だからと偏見の眼差しを感じることも言葉が通じないからとちょっとした意地悪されることもあるが、私は相当恵まれているのだろう。きっともっとこの環境に感謝しなくてはならないはずだと自分を戒める。

日本にも横柄な人も親切な人もいる。それはきっと割合もモロッコも日本も大体一緒なんだろう。モロッカンの些細な親切さも少しの意地悪も、どちらも外国人の私は感度が大きくなっている。

 

私はまだ首都しか滞在経験がないため、地方のことはよくわからないが、モロッコに必要な最低限の物はちゃんと揃っている。滞在2ヶ月経過したが残念ながら現時点で、誰一人として物を大切に扱っているモロッカンに出会ったことがない。大体使い方が乱暴ですぐ壊す。そして壊れたものを直せるところは姑息的に直すが、病院の中で手に負えない人工呼吸器などは人任せに倉庫に放り込み、おしまい。倉庫の中身はぐちゃぐちゃで何が使えて何が使えないのか全くわからない。恐らく誰も知らない。そのまま少しずつ埃をかぶって汚れていくのをただ倉庫で待つ機械たち。

もし、それらをちゃんとメンテナンスすれば、機械を買うお金のコストダウンになるし、そのぶん清潔を守るために必要な道具を買うことができるのに…そうすれば、感染が少なくなり、入院日数が短くなり、スタッフの労力は結果として減るのに…

はたから見るとそのように思うのだか、ここしか見たことのないモロッカンにとっては、目の前に広がる世界が常識である、私の感覚は理解することは難しいかもしれない…

 なぜ手を拭くタオルがある部屋とない部屋があるの?と質問したら「それは買うお金がないからよ。」と一人の看護師が言っていた。

 

 また、私の配属された病院は公立であり、医療費は無料らしい。モロッコは貧富の差が大きく、当たり前だが日本のような生活保護などもない。裕福な人は本当に相当のお金持ちだそうで、彼らは私立のクリニックに行き、「公立の病院なんて恐ろしくてかかれない。」というそうです。

私は、自分の配属された病院がそのように言われることに対して悔しいと思うし、自分のいる病院をモロッコで一番の病院にしたいと思うが、働いているスタッフたちのやる気も 100人100様。それでもいい。ただ、業務のスキルやケアの基準の最低限のラインがないのだろう私には業務の基準となるものが見えない。

 

日本では当たり前であるお客さんや患者や家族に対しするホスピタリティや、生活の中で物を大切に取り扱うことが良いことだという日本の習慣、文化、道徳に対して、日本にいるときには全く気づかなかった。日本の常識は学校の基礎教育においても、しっかりと植え付けられていたということを改めて実感する。人の嫌がることをしてはいけない。悪いことをしたら素直に謝る。相手の気持ちを考える、などなど。

モロッコの学校で教えていることと日本の学校で教えていることの違いも、二か国の道徳観の違いへの影響は多少あるだろう。

モロッコにいる先輩が「そのような日本人の当たり前の文化や習慣はどのように出来上がっていったんだろうか?初めからあったわけではなかっただろう。お母さんから聞いて、そのまたお母さんがそのお母さんから…いつからはじまったの?」と言っていた。

確かに昔は、患者対医療者の関係だって酷いもので、医療者が患者をしかりつけていた時代もあったらしい。しかし、いつのまにかホスピタリティが浸透し、患者の権利が守られるシステムが出来上がり、患者が声をあげやすい状態になった。物を大切にすることが良いことだと誰が言い始めたのか…私にはわからない。

ただ、子どもの頃、両親に「物は大事にしなさい。そのおもちゃが壊れたって、あなたの遊び方が悪かったから壊れたのよ。だから新しいのは買わないよ。」と言われた記憶もある。私の祖母は、戦時中・戦後の物のない時代を必死で生きてきた世代。どんな包み紙や包装紙、段ボールさえ捨てずにそれらを使って、かごや入れ物などをつくり楽しんでいる。「昔は物がなかったから…今は捨てるほどあるっていうけど、どうしてもやっぱりその時の記憶があるから物を簡単には捨てられないのよ」と口癖のように言う。そんな私はファストファッションがあまり好きでない。若気の至りで流行を追った時期もあったが、今は本当に気に入り心がときめいた物だけを買う。

私のファッションセンスの良し悪しについての議論は…さておき‼

 

 国民性や道徳的な規範は、それぞれの環境や生活習慣の繰り返しの中で無言に出来上がりそれがいつの間にか常識となっていくようだ。モロッコに来てからのほうが、よほど日本人や日本について真面目に考えている。日々勉強である。

 

ちょっとした観光地でありデートスポットであるハッサン。

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続く。